ソラミミ堂

  • 2010年6月2日

    淡海宇宙誌 II めぐみの値打ちの根っこ

     僕ら人間には、さまざまな、かけがえのないめぐみがあたえられている。自然のめぐみ、歴史のめぐみ、そして人のめぐみ。僕らはそれらめぐみをめぐりあわせて文化をつくる。  人間のそのいとなみをささえるめぐみのなかのめぐみが僕らにはあたえられていて、それは想像力というめぐみです。  想像力というのはめぐみをまさしくめ... 続きを読む

  • 2010年5月20日

    淡海宇宙誌 I めぐみをめぐりあわせる

     僕は、地域の文化というのは、ある土地に生きる人々が、そこにあるいろいろなめぐみをめぐりあわせてつくったものだと思います。  地域にあるめぐみというのは、まず第一に「自然のめぐみ」です。  土や木や石や水や草花、魚や動物や虫、雨や風、山や川や海、そうした、無数にある自然のめぐみについて、その特徴や性質をよく観察し、「... 続きを読む

  • 2010年4月9日

    百年の帳尻

     お彼岸が過ぎました。ウグイスの初鳴きを聞きました。  たとえば梅やフキノトウから、土筆にヒバリ、木蓮へ、野山の仲間が春を数えて桜まで。三、二、一のカウントダウンも大詰めです。うれしそうだなあ。  それを横目に、僕らの世界は出会いと別れの、終わりとはじめの、帳尻合わせの、ここが峠の年度末です。  帳尻あわせと言... 続きを読む

  • 2010年3月25日

    風景の死に目

     「風景のお葬式をしたら」という考えは、面白半分のようですが、残りの半分は、やっぱり本気なのです。  僕の部屋から見えていた、背の高いポプラの木が、つい先日、伐られてしまいました。途中で伐られて高さが半分になった。それで部屋から見えなくなった。  僕はたまたま、伐られている横を通りかかって、アッ、伐られている、と思... 続きを読む

  • 2010年3月11日

    怪盗ジカンと我ら風景探偵団

     あまり大きな声では言えませんが、僕の友人のミコシバさんは、風景探偵をしています。  風景探偵というのは、何十年も前に撮影され現在に残された、古い風景写真や絵はがきを手がかりに、失われてしまった町の記憶を取り戻そうとする者です。  なにをかくそう、この僕も、風景探偵のはしくれなのです。我ら風景探偵団!  たのも... 続きを読む

  • 2010年2月23日

    育つわかれ

     たがいにみとめあった友とわかれるのは、たのしい。  変なこと言うなあ。でも僕はそんなふうに考えているのです。  なぜそんなふうに考えているのかというと、人とその友とは、あす出会うためにきょうわかれるのだ、ということが、僕にもだんだんわかってきたからです。  あす出会うためにきょうわかれる。そういうわかれ方がで... 続きを読む

  • 2010年2月5日

    ピッピのゆびさき

     多賀の山あいで50年にわたって野鍛冶職人として生きてこられた松浦さんの手は、豊かな手だと思います。  外見こそ、古木の根っこのようにふしくれだっていて、大きくて、ごつごつとしているけれど、同じその手は大変繊細な感覚を備えています。  真っ赤に焼けた鉄をめがけてハンマーを打ち下ろす。ハンマーが、トン、と鉄と触れ... 続きを読む

  • 2010年1月20日

    指の先まで生きている

     「紙はこすれば破れてしまう、鉄でもさびる、だが人間の手は、使えば使うほど、丈夫に、そしてかしこくなる」ということを、僕はずいぶん小さい頃に、僕の亡くなった祖父からおそわりました。  祖父のおしえの、それこそお手本のような豊かな手の実物を、僕は身近に知っています。  それは芹川の上流、多賀の山あいで、50年のあ... 続きを読む

  • 2009年12月27日

    ものわかれのはじまり

     ある朝、出かけようとして、玄関で靴を履こうとしていると、うしろからテルハがタタタとやってきて、「あい!」と言って、ちいさな手提げ袋を、僕に渡してくれました。  その手提げ袋には、妻がこしらえてくれた、お弁当が入っているのです。うっかりわすれて行くところだった。  何かを誰かに渡したり、誰かから何かを受け取るこ... 続きを読む

  • 2009年12月13日

    生命合理主義の旗 —後編—

     いのちというものを真ん中に置いて考える。そういうことが必要なときだと思います。  経済合理から生命合理へ。世の中の価値観は、そういうふうに動いていくと思います。  お金がめあて、いのちは手段という転倒からの回復。  それはたとえば、働くことの意味の回復ということでもあります。  働くということには「仕事」と「... 続きを読む

  • 2009年11月22日

    生命合理主義の旗 —前編—

     世の中は、おおきな変わり目にさしかかっていると思います。  どんな変わり目か。  僕は、経済合理至上の世の中から、生命合理の世の中、いのちのことわりにかなう世の中への変わり目だと思います。  極論すれば現在は、様々なものごとの価値がお金というただ一本の定規でのみ計測される世の中で、あらゆるものにぺたぺたと値札... 続きを読む

  • 2009年11月8日

    僕の三枚おろし ―後編―

     人間を三枚おろしにすると「からだ(物質性)・こころ(関係性)・たましい(時間性)」に切り分けられると思います。  からだは巨大に世界規模化しているが、それに見合ったこちらの感謝が世界の端まで届いているか、というのが僕の反省。  こころはほんとに百面相。きのうの自分、あしたの自分、家での自分、会社の自分、学校で... 続きを読む

  • 2009年10月25日

    僕の三枚おろし ―前編―

     秋の夜長。今夜は人間を三枚におろしてみましょうか。  と言っても、季節はずれの怪談をはじめるわけではありません。三つの観点から自分という人間を反省してみようという話。  人間を三枚におろしたら「からだ・こころ・たましい」に切り分けられると僕は思います。  「からだ」というのは肉体としての僕、僕の物質性。「ここ... 続きを読む

  • 2009年10月11日

    存在というまもり

     伊吹山のふところに抱かれた水源の里で、仲間たちが「たからの地図」づくりを始めました。  そこに記された「たから」とは、僕たちの社会にとって、もっとも大切なもの。それどころか、それがなければ、僕たちの社会自体が成り立ち得ないもの。  おわかりですね。地図に記される「たから」とは、「人」です。 仲間たちはいま人と... 続きを読む

  • 2009年9月27日

    愛に書き足す

     人と共にある、ということは、こころの中にある辞書が、日々書き換えられていくことなのだ、とテルハがおしえてくれました。  テルハによって、僕のこころの辞書の大改訂が進んでいます。  僕たちの間にテルハを授かってから今日までの日々を通じて、これまで僕が知ってきた、たくさんのことばの意味が書き換えられてきています。... 続きを読む

  • 2009年9月13日

    鮎たちの沸点

     この夏の沸点は、どのあたりだったのでしょう。  僕はまたうかうかと、通り過ぎてしまった。  お構いなしに、秋は進んでいます。  琵琶湖に注ぐ河川では、産卵のため、小鮎の遡上が続いています。  湖北の漁師松岡さんから聞いた話が、僕には忘れられません。  今から四十年ほども前、湖産の鮎の稚魚が欲しいという人が... 続きを読む

  • 2009年8月23日

    あしたのごみ

     夕暮れどきに、小さいテルハと浜辺を歩けば、強かった昨日の波風の思い出に、大小の木の枝や、ちぎれた水草がいちめんに広がっています。  それに混じって、お菓子の袋、野球のボール、プラスチックのボトルなどが、点々と転がっています。  木の枝、こんにちは。  水草、こんにちは。  お菓子の袋、こんにちは…。  ひ... 続きを読む