ソラミミ堂

僕の三枚おろし ―後編―

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年11月8日更新

 人間を三枚おろしにすると「からだ(物質性)・こころ(関係性)・たましい(時間性)」に切り分けられると思います。
 からだは巨大に世界規模化しているが、それに見合ったこちらの感謝が世界の端まで届いているか、というのが僕の反省。
 こころはほんとに百面相。きのうの自分、あしたの自分、家での自分、会社の自分、学校での自分…いろんな自分。百面相を鏡に映し、自分のなかの迷宮に迷う日がある。
 そうかと思えば、街なかのアパートメントでは、右のとなりも、左のとなりも、わたしも互いにノッペラボウ、とか、そういうこともあるのですよね。
 こんなに周りに人がいて、電話の先に、キーボードの向こうに、こんなにみんなつながっているかに見えてその実は、関係の大海原に散らばる孤島のように寂しいという人もありますね。
 自分自身との関係は、立派な自分も、だめな自分も、どんな自分も認めてやれればそれがいい。でもどうしても、自分で自分が嫌いになって、自分で自分を認めてやれないことがある。自分で認めてやれなくっても、どんな自分も見ていてくれる誰かがいるから、そんな誰かの存在を信じられるからすくわれる。
 百万の網目があってもすくわれないのも、たったひとつの結び目だけですくわれるのも僕らのこころ。
 人はたましい、時間でもある。
 生命は、四十億年とも言われるはるか昔のちいさな微生物、そのひとつぶにはじまって、ここまで届いて来たのでしょう。
 それをおもえば、親の親、親親の親、そこから生まれた僕も含めて、そのそれぞれの個々の生など一瞬としか言いようがない。いのちとは、なるほど「風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながら」ともりつづける電燈の明かりのようなものでしょう(※1)。
 それならば、何十億年という流れなかの僕のいのちは、スズメの涙、どころかノミの耳かきひとすくいほどのものですね。
 そもそも、もはや「僕のいのち」ではなく、「いのちの僕」と言わねばならない。いのちは私物化できないのです。いのちがとても大切なのは、それが自分のものだからではなく、それが決して自分のものではないからなのだ。
 過去から受け継ぎ、未来へ渡す、ともりつづけるたましいの時間が不滅の旅であるならば、僕らのからだ、僕らのこころ、僕らは舟のようですね。

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