邂逅するソラミミ堂55 コバルト色の流れ星
血はあらそえないとはよく言ったもので、草木虫魚を愛する子に育った。
女の子で中学一年生ともなれば、世間一般ではそろそろ親をうとましく感じるようになる年ごろかとおもうが、川へ行こう魚を見よう、山へ行こう虫を探そうと誘えば嫌ともいわずつきあってくれる。そんな呪文も遠からず効かなくなるのだろうか。
娘とふたり、近ごろのたのしみは、休みの日の朝に散歩すること。すぐそこの川へ。カワセミを見にいく。
五分も歩けば行けるほんの近所に、宝石にもたとえられるカワセミのすみかがある。じつは案外身近な人里にもいる鳥なのだが、清流にすむ印象があるために、まさかこんなところにという思い込みから、ついそこに彼らがいるのを知らないで暮らしている人も多い。
川べりのこみちに分け入ると、ふいに足もとでキラリと光って、あの青い美しいのが川面すれすれにツゥーっと飛んで、向こうの土手の茂みに消える。つがいでいるのはわかっているのであわてずにじっとしていると、ほどなくして案の定、別の一羽が追いかけて飛ぶ。
あらわれて、まっすぐにコバルトブルーの軌跡をひいてフッ、と失せる。カワセミのあらわれ方と失せ方は、まるで流れ星みたいだ。ホラ、いま流れた! 見た? 見た。そんなふうに。
ふたりで通ううちに、土手の木々が川面にさしのべる枝のうち、どれが彼らの好みであるか、ここから飛べば次どの朽ち木に止まるのかの見当もついてきた。
けれど、よし今日は写真に収めてやろうとカメラを構えて待つようなときに限って気まぐれな出没をする。
ある日など、向こうでキラリと青く光っているのが空き缶だとも気づかずに、小半時ほどもそいつがこちらへ飛んでくるのを土手にすわってふたりでのんきに待っていた。
なんとも間ぬけな話だが、それが空き缶だってカワセミだって父は一向かまわない。娘とふたり、川のほとりのこのひとときがあればいい。
流れるコバルトブルーの星に願いをかけるまでもない。流れる星をただ待つようなこのひとときに願いはほとんど叶っている。