風景の死に目
「風景のお葬式をしたら」という考えは、面白半分のようですが、残りの半分は、やっぱり本気なのです。
僕の部屋から見えていた、背の高いポプラの木が、つい先日、伐られてしまいました。途中で伐られて高さが半分になった。それで部屋から見えなくなった。
僕はたまたま、伐られている横を通りかかって、アッ、伐られている、と思って、風景のなかからその木が失われていく様子を見届けることができました。
その場に居合わせたことは、そこに木のある風景と、ちゃんとわかれることができたという点で、良かったのだろうと思います。
死に目に会えたかどうか。ということを、人との別れの場面では、僕らはわりと気にかけますね。つまり僕は、そこにポプラのある、ある親しい風景の死に目に会えたというわけです。
もしこれが、外から帰ってきて、お茶を飲んで、机に向かって、ふと窓の外に眼をやったときに、そこにいつもの親しい木の姿が失われていることに気づいたのだったら、僕は、木が伐られる場面に出会った以上のショックを受けていたかもしれません。
部屋の窓から見えるポプラこそ、僕には、僕のポプラだったから。
いつものこころ、これは、ひとつところに長くはとどまらないで、小鳥のように飛びまわる。
小鳥のようなこころ、そのこころのための止まり木が、この窓から眺める風景のあちこちにある。件のポプラも、そんな止まり木のひとつでした。
ときどきは、小鳥ではなく、サギのようなこころが、そのこずえでいつまでも、じっとものを考えていることもあった。
こころをちょっとあずかってくれるだけでなく、きょうの僕が、きのうから続く僕だということの確信の、だいじな部分を、僕が毎日見る風景や、そのなかにあるものたちが、支えてくれているのではないかと、僕は思っています。我おもう、ゆえに我あり。だけでは確かめられない自分があると思います。
僕のこころは寝て起きて、毎日くるくる変わるけれど、目覚めて眺める天井の梁や、道ばたの小屋、ふだんは意識もしないようなささやかな風景であっても、それが変わらずにそこにあってくれればそれで、確かめられる我もある。
なので、死に目を見ぬ間に知らぬ間に、風景が失われたら、こころのかけらがはがれてしまって、僕も知らない僕のどこかに隙間が空くと思います。