ソラミミ堂

生命合理主義の旗 —後編—

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年12月13日更新

 いのちというものを真ん中に置いて考える。そういうことが必要なときだと思います。
 経済合理から生命合理へ。世の中の価値観は、そういうふうに動いていくと思います。
 お金がめあて、いのちは手段という転倒からの回復。
 それはたとえば、働くことの意味の回復ということでもあります。
 働くということには「仕事」と「稼ぎ」の二種類あるという考え方があります(※1)。
 「稼ぎ」というのは(本当ならばしなくて済ませたいけれど)お金を得るためにする労働で、一軒一軒、一人ひとりの、あるいは一国一国の、個人主義的なもの。そこで「稼ぎ」の効率を追求すると、社会や自然を損なう事態にもなる。いのちを削ることもある。
 いっぽう「仕事」は、たとえば地域で、家庭で、みんなで生きていくために必ずしなければならないこと。集落でする共同作業や家庭での家事は「仕事」のうちに入ります。
 「仕事」と「稼ぎ」、この二種類に、僕なりに付け加えるなら「儲け」です。誰のため、なぜ、何のためにということもなく、お金がお金を生むような。
 思い出すのは、鈴鹿の山で林業をなりわいとして生きているある男性が僕に語ってくれたことです。
  木というものは、一人前になるまでに百年単位の時間がかかる。自分が伐る木は自分の先代、先々代が植えて育ててきてくれたものである。林業というなりわいは、自分に先立つ人々の恵みの上に成り立っている。
 今だけ見れば、林業というなりわいは、これは大変厳しいが、山で働くこの今は、遠い過去からここまで続く今であり、ここから先へはるかにつながる今だと思う。
 自分のしごとが過去の百年、未来の百年につながっている。そう思ったら、厳しい今も、大切な今、誇らしい、愛しい今に思われる。厳しいことには違いはないが、先代を想い、次代を想えば頑張れる  。
 今がよければ、と短絡したり、今を切り売りするのではなく、今につながる、自分につながる過去未来、人や自然を、そのつながりをよろこびながら、尊びながら向かい合う。「仕事」とは、生きることとはそういうものだと教えられます。
 個々のいのちはやがて死ぬ。死んだら終わり。これは経済合理です。やがて死ぬ、瞬くような、個々のいのちを超えてつながる生命がある。これが生命合理です。その永遠に気づくこと、この今の、永遠性を生きることです。

参考: 内山節『自然・労働・協働社会の理論』農文協、1989年
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