愛に書き足す
人と共にある、ということは、こころの中にある辞書が、日々書き換えられていくことなのだ、とテルハがおしえてくれました。
テルハによって、僕のこころの辞書の大改訂が進んでいます。
僕たちの間にテルハを授かってから今日までの日々を通じて、これまで僕が知ってきた、たくさんのことばの意味が書き換えられてきています。
教科書で骨と皮だけ学んだようなことばにも、たちまち血肉があたえられ、みるみる意味が充実します。
こんなことは、妻との出会い以来であって、なおかつそれを上回る。
なにしろ今度の改訂は、いのちがぐんぐん育ちゆく、そのいきおいと共に進んできたのです。
【ちいさい】というのはこういうことであったと知った、この子テルハの、生後間もない幾日か。【ちいささ】そのものをこの腕に抱いていました。
【かわいらしい】とか【いとおしい】という気持ちとは、なるほどこういうものだったか、とくる朝ごとにかみしめる。
花がふわりとほころぶように【笑う】ということ。
つけもの石か何かのようにぎゅーっとかたく、重たくなって【泣く】ということ。
【育つ】ということひとつとっても、人類史上の一大事だったであろう【立つ】や【歩く】が、ゆうべできたと思ったら、今朝はもう、まるでなんでもないことみたいにやっている。
自分で何でもできること、思いのままにできること、それが定義と思っていたが、何もかも自分でできない赤ん坊には、世界を信じ、親を信じ、周りのすべてを信じきって、すべてをゆだね頼りきる、そういう【自由】もあるということ。するとかえって、人なみになる・大人になる、というのは、その自由から、不自由のほうへ分け入るということになりはしないか。
くる朝ごとに、その子のためにしてやれることが一つずつ減っていくのが【親】というもの。
そのうえで、わが子と共に育っていくのが【親】というもの。
その【親】として、この子テルハと、この子にかかわるすべての子らを想うとき、この子らすなわち【未来】を破壊し、おびやかすもの、その存在の生々しさが迫ってきます。
しかし必ず、僕らは正しい【怒り】をもってそれとたたかう。
それをたとえば【愛】というなら、そうした【愛】を、僕はすすんで僕のこころの辞書のはじめに書き加えます。