ソラミミ堂

百年の帳尻

このエントリーをはてなブックマークに追加 2010年4月9日更新

 お彼岸が過ぎました。ウグイスの初鳴きを聞きました。
 たとえば梅やフキノトウから、土筆にヒバリ、木蓮へ、野山の仲間が春を数えて桜まで。三、二、一のカウントダウンも大詰めです。うれしそうだなあ。
 それを横目に、僕らの世界は出会いと別れの、終わりとはじめの、帳尻合わせの、ここが峠の年度末です。
 帳尻あわせと言ったはずみで、こんな話を思い出します。
 ある朝早い道ばたで、漁師の男と農家の男が出会います。農家は田んぼへ行く途中、漁師は漁の帰りです。
 あいさつがわりに漁師が農家に「今年はどうか」とその年の米の出来ばえをたずねます。
 農家は答えて「いやあなかなか、来年はもっと良くしたい」。
 こんどは農家が「今朝はいかが」と漁師の首尾をたずねます。
 漁師は答えて「昨日のほうがよかったなあ」と言いました。
 「漁師の昨日、百姓の来年」。
 このお話は、漁師と農家の時間のとらえ方の違いを教えています。
 米が収穫できるのは年に一回。いわば農家は一年ごとの工夫です。
 そういえば、祖父が言っていた。「百姓は、一生かかって五十回工夫できたら上等でなあ」。
 対する漁師は一日いちにちが勝負の世界。陸の上では兄弟以上の仲間でも、舟に乗ったらライバルです。帳尻合わせの期限がちがう。農家と漁師、人間界では、稼業によって、生きる時間が変わるのでした。 

 何百年もの歴史を誇る、ある村の住人ヨシナリさんと話していたら、こんなことを教えてくれました。
 農家にとって田んぼの水は命がけ。だから春にはおんなじ村の隣人同士でも、我田引水、用水の取り合いをすることもある。暗黙の水争いは日常だった。それでも次の日、道で会ったら「こんにちは。良いお天気で」なんて平気で言える。どうしてか。
 村というのは、百年来の付き合いのある家と家、家族と家族の集合である。たとえ今日、水をめぐって隣家のことを「こんちくしょう」と思っても、同じ隣家に、先祖は世話になっている。百年間には、家と家、人と人との、時間を超えたお互い様が成り立っている。
 「私らの帳尻あわせは今日や昨日の、一年二年のミミッチイものじゃありません。」
 この余裕。この懐の深さです。近江の人の底知れなさを覗いてしまった気がします。

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