ソラミミ堂

あしたのごみ

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年8月23日更新

 夕暮れどきに、小さいテルハと浜辺を歩けば、強かった昨日の波風の思い出に、大小の木の枝や、ちぎれた水草がいちめんに広がっています。
 それに混じって、お菓子の袋、野球のボール、プラスチックのボトルなどが、点々と転がっています。

 木の枝、こんにちは。
 水草、こんにちは。
 お菓子の袋、こんにちは…。

 ひとつひとつにあいさつしながら歩いていると、みんなみんな、テルハには友だちらしい。でも日曜日には、集落総出の美化活動なので、枝もボトルも、みんなみんな、日曜日には、ごみになります。さようなら——。
 さようなら…。でも、ごみはいつから、ごみなのだろう。
 ふと立ち止まると、以前近所のおばあさんに聞いた、浜辺の暮らしのお話が、思い出されてきたのです。


 おおきな風が吹いたあとには、タキモンがたくさん浜にうちあがるので、夜が明けたら、タキモン拾いをしなければ。
 と五十年前の、台風の晩には、家のおばあさんやお母さんは、ふとんのなかで、思ったそうです。
 タキモンというのは、焚き物、つまり燃料のこと。強風に折れ、川に流され、波に運ばれ、明くる日、浜にうちあげられる、大小枯れ木の枝のことです。
 浜辺のお母さんたちは、そのタキモンを拾い集めて、稲藁、籾殻、薪、松葉などとあわせて、日々の飯炊き、風呂焚きをする。
 その焚き方も、どんな火にするか、どういうお湯が欲しいかで、燃料を変えたり、組み合わせたりします。「火焚き上手はやりくり上手」と、そのワザが家事の手腕のモノサシだったということです。
 その当時、タキモンは、山川とつながる浜辺の貴重なめぐみのひとつです。人びとは、そのめぐみを競って使う。
 使うといっても、そのありようは、モノのめぐりに、人間がちょっと介添えしているようなもの。
 ここの湖辺で暮らしていく、その必要からのタキモン拾い。そんなわけで、ことあらためて美化活動をしなくても、浜辺はいつもうつくしい。
 僕らにおいて、住むことが場を澄ますとは、かくのごとくでなかったか。


 僕たちの親々の親、そのまた親は、草木虫魚、自然のめぐみのめぐりにあわせ、めぐるめぐみをめぐりあわせて、土地ごとの暮らしの文化を織り成した。
 僕たちの遠い親には、その場にあるもの何でもが、暮らしにかかわりうるものであり、日々の観察そして工夫の対象であり、畏れと感謝の源だったと思います。まわりはめぐみに満ちていた。
 それがいったい、昨日のめぐみは、いつの間に、あしたのごみになったのか。

 ——人とかかわると、ごみになるよ。
 ——人とかかわらなくなると、ごみになるよ。

 さざなみにまぎれて、足もとから、そんなつぶやきが聞こえてきます。

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