邂逅するソラミミ堂50 くずれにまとまる
一回目。はじまり、はじまり。
二回目。まだ、大丈夫。
三回目。いよいよ、くるか。
あおぎみて、伊吹のみねが雪をいただくのをかぞえ、その装いにならって身支度し、暮らしのそなえをととのえる。
湖北湖東の、冬の物語の、それがいつものプロローグなのだが、今年は早々の里雪になった。
降れば降る不便を、降らねば降らぬ不安を口にしながら、結局は、雪と共に生きている。
ただ、共に生きるなどと親しげに言えるのは現代なればこそ。多い時は十メートル近くも降り積むことのあった山村では、雪に耐え、雪をおそれるのがかつての暮らしであった。
『日本残酷物語』という、その名もおそろしげな本の中に、雪の脅威の例として、湖国最奥、余呉の山村におけるアワの話がみえる。アワとは新雪雪崩のこと。
すなわち「アワというのは冬のさ中に多く出る。静かな、物音の一つしないような夜など、山の頂の木の枝にたまっていた雪がこぼれ落ちる。根雪の固く凍った上に新しい雪のふんわりと積っているようなところでは、この小さな雪のかたまりが斜面をころがってゆくにつれて大きなかたまりになり、新雪をまいて中は大きな空洞になって、どっと谷底へぶつかってくる。その途中の木もなにもヘシ折ってしまうのがふつうであった」。
人々はこのアワを芯から恐れて、囲炉裏端での団欒のうちにも誰かがふと「アワの出そうな晩になった」などと言えば、ふっつり話も止んでしまう。そうして皆が戸外の闇に聞き耳を立てるといったふうであった。
それほど恐ろしいアワを引き起こすのはしかし、枝のわずかな雪である。
雪崩であれ土砂であれ、あるいはもっと巨大なものも、崩壊はいつも些細なきっかけから始まる。その引き金は、前代未聞の大きな事件でなくてよい。肝心なのは、そこに外から何がやってきて、どんな力が加わるか、ということではなくて、崩れるものの内がわに崩れる準備がととのっているかどうかということである。
降り積む、つもるということは、崩れに向けて着々とまとまっていくということだ。
耳を澄まそう。すでに準備が済んだみたいな世間の夜だ。