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ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂51 生死にかかわる

このエントリーをはてなブックマークに追加 2021年3月25日更新

 「死生について公に議論しよう」ということで、各界の当事者や学者に呼びかけて招集されるその名も「死生懇話会」のとりまとめ役をすることになった。
 とりまとめと言っても「死生」とは、かのお大師さまをして「生生生生暗生始 死死死死冥死終」と言わしめるほどのテーマである。一度や二度死にかわり生まれかわりしたくらいでわかるようなものでないということはみなもよくわかっている。主催者からは、おおいに議論をそそのかせ、とそそのかされている。
 会の招集にあたって「死生について公に議論することをどう思うか」を尋ねてみると「死生から目を背けずに考えることは大切だからおおいにやるべし」という声と「死生や死生観は個人の思想信条の自由に属することがらであり公が取り扱うのはそぐわない」という声があって、前者のほうが優位ではあったが両者拮抗という具合であった。賛否が分かれていればこそ議論は面白くなるというもの。
 そこでこの際議題をすこし挑発的なものにしてさらに焚きつけてみることにした。すなわち「死は誰のものか?」「どうやって死をわかちあうか?」そして「誰が死を殺すのか?」。
 死生は個人の問題であり死生観は個人の思想信条の問題なのだから公がむやみに踏み込むべきではないというのはその通りである。全体主義や戦争は、個人の死生に公が介入することの最悪の帰結である。
 一方で、この一年、新来の病と向き合う中でわれわれは「公の決定やふるまいが個人の生死に直結する」という事実をまざまざと体験してきた。
 また、十代以上の子や若者の死因の一位が自殺であるという数字をつきつけられて、いまや社会として死生をただ個人の自由に帰するものとして済ますわけにはいかないようにも思う。
 実際のところ、死は昔から個人のものであったのか? そうでないならそれはいつからそうなったのか? そもそも死とは生命が進化の過程で「発明」し「採用」したいわば「生存戦略」でなかったか。ならば死はこの先いかに「進化」するのか…。
 死生の来し方現在行く末をおおいに議論したいと思う。

*「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」(空海『秘蔵宝鑰』 830年頃成立。空海著・加藤純隆他翻訳『秘蔵宝鑰』角川書店、2010年)

 

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