鮎たちの沸点
この夏の沸点は、どのあたりだったのでしょう。
僕はまたうかうかと、通り過ぎてしまった。
お構いなしに、秋は進んでいます。
琵琶湖に注ぐ河川では、産卵のため、小鮎の遡上が続いています。
湖北の漁師松岡さんから聞いた話が、僕には忘れられません。
今から四十年ほども前、湖産の鮎の稚魚が欲しいという人があり、松岡さんは、はるばる東の多摩川へ、放流しに行ったのだそうです。
ここで放す、と相手が示したその水を見て、松岡さんは、ここは駄目だと直感します。
相手に説いてみるものの、その場へ放流せよと言うので、ついに、稚魚たちをそこへ放した。
一瞬の間があり、そのあと何が起こったか。
稚魚たちは、まるで電気に撃たれたように、一斉に岸にはね上がったというのです。ひっくり返った稚魚たちで、足元いちめん白くなったというのです。
放流直後の一瞬の間は何かといえば、稚魚を生かして連れてきた、水槽の水もろともにザバザバあけた、その水すなわち琵琶湖の水がその場所に滞留していた、その間であった。
多摩川は今、「水の力」を取り戻し、鮎を養うまでになったと聞いています。
ところが琵琶湖の「水の力」は年々弱くなっている。四十年後の、松岡さんの実感です。
続々と小鮎の群れがのぼっています。
川上の、流れが細く浅くなるあたりでは、魚の影で川面が黒く見えるほどです。
子孫を残す——ただひとつ、未来への衝動につきうごかされた、いきものの迫力。
鮎たちの、いのちがわきたつ。パシャパシャ、キラキラと魚は跳ねる。
生命の沸点。
やがて来る明日には、川原に、川底に、腹をすかせた鳥たちのまえに、豪勢に、何万もの死骸をさらすことになる。
いつか見た小鮎の秋は、あれは「祭り」のようでした。
そのいのち、その身のすべてを、未来への捧げものにして、あらゆる生は、あす来る死への前夜祭。
そのありさまはお前の目には「ずいぶんさんたんたるけしき」だろうが、わたくしたちから見えるのは「やっぱりきれいな青ぞらと、すきとほった風ばかり」だと、すっかり気化した鮎のいのちがどこかでクスクスわらうようです。