江展望 2011
多賀大社の梵鐘に猿夜叉の刻印

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 多賀町 2011年6月6日更新

浅井猿夜叉の名が刻まれた梵鐘(写真提供: 多賀大社)

鐘楼

 江たち浅井三姉妹の父、長政は幼名を猿夜叉といった。多賀大社には、浅井猿夜叉の名が刻まれた梵鐘が、参集殿のそばの鐘楼に吊るされている。梵鐘が奉納されたのは、天文24年(1555)のことだ。当時社内にあった不動院の初代住職・祐尊の呼びかけに応じた近隣の土豪122人が連名で寄進している。長政もそのひとりだった。
 「六角義賢のことである佐々木宮内少輔源賢誉や、京極家の流れを汲む尼子氏の名前もあります。この梵鐘が特徴的なのは、当時は土豪たちの間には、敵・味方の関係があったはずですが、そういった利害関係のようなものを超えて、連名で寄進しているということです(明治までの神仏習合の名残りの梵鐘。現在は使われていない)。それだけ当社が当時から大きな存在だったことがわかります」。
多賀大社の文化財を担当する稲毛友幸(51)さんが教えてくださった。
 長政は当時11歳。浅井家は六角家に屈服していたが、奉納から5年後に、長政は梵鐘に名を連ねていた義賢を破ることになる。以前に触れた永禄3年(1560)「野良田表の戦い」でのことである。長政は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に見事な戦いぶりだったという。
 「北近江を治めるようになった長政の性格を知ることのできる文書も残っています。大社に狼藉を働いたり、神事をおろそかにする者には処罰を下すことを言い渡す内容です。神事や伝統文化を重んじる武将だったのでしょう」と、稲毛さんは推測している。
 ところで、多賀大社は多くの戦国武将から信仰されている。長政の重臣であった遠藤直経は、長政と織田信長が争った姉川の合戦の半年前に武運長久を祈願し、三十六歌仙絵を奉納している。ただ祈願むなしく直経は合戦で討ち死にしている。信長の首を狙って敵陣へ深く攻め入った際のことであった。
 また豊臣秀吉は、母大政所が病気になった際に、まず多賀大社に一万石を寄進し平癒を祈願した。大政所は無事回復し、大社ではこの一万石を使って、参集殿と隣接する奥書院と庭園や、鳥居をくぐって正面にある太閤橋が築かれた。三姉妹の長女・茶々が秀吉の側室となったのはこの頃の話である。
 「浅井三姉妹と当社のゆかりについてはわかりません。ただ、長政や秀吉と当社との関わりを考えますと、何かつながりがあったとも想像することができますね」。
鐘楼の猿夜叉の刻印がその証だろう……。
 江の3人目の夫となった徳川秀忠も社領の所有権を公認するなど、大社の運営に尽力している。
 今に遺された歴史の断片から過去の情景を何処まで遡ることができるのか……、遠望の醍醐味である。

 

多賀大社

滋賀県犬上郡多賀町多賀604 / TEL: 0749-48-1101
奥書院と庭園の拝観は9:00〜16:00
拝観料 300円(10人以上は250円)

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

青緑

スポンサーリンク