江展望 2011
江誕生13年前、浅井長政、野良田表の戦いに勝利す
国道8号線から聖泉大学方面へ向かう道中に「高橋」がある。欄干の上部が瓦風の造りになっている。橋を管理する県に尋ねると、城壁をイメージしているという。橋を南に渡った肥田町に、かつて肥田城があったことにちなんでいるそうだ。
肥田城は浅井長政にゆかりある城である。
江北を領していた浅井氏にとって、ライバルともいえるのが江南を支配していた六角氏である。長政は当主となると、肥田城主であり、六角氏に代々仕えていた高野瀬秀隆と通じるようになった。
秀隆が浅井側に寝返り、時の六角氏当主・義賢がしかけた報復攻撃が「肥田城水攻め」で、日本最初の水攻めだった。永禄二年(1559)9月19日、城の周囲に堤を築き愛知川と宇曽川の水を入れ攻めたという。堤の決壊で水攻めは失敗に終わる。ちなみに、日本三大水攻めは、「備中高松城・天正10年(1582)」「紀伊太田城・天正13年(1585)」「武蔵忍城・天正18年(1590)」。いずれも豊臣秀吉が関わった城攻めである。
六角軍は再攻撃をしかけ、知らせを受けた長政が軍を率いて駆けつけ六角軍に打ち勝つ。この戦いは肥田町の隣、野良田町で行われ「野良田表の戦い」と呼ばれている。浅井氏にとって六角氏を破った歴史的な戦いであった。
ところで大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」は、長政のもとに織田信長の妹市が嫁ぐあたりから物語が始まるが、市との結婚は長政にとって再婚で、最初の結婚相手は六角氏家臣の娘だった。また当時長政は、義賢の名から一字とり「賢政(かたまさ)」と名乗っていた。どちらも六角氏への屈服を意味する。野良田表の戦いにさきがけ妻と離縁し、この戦い以降名を「長政」と改めている。この名は、信長の「長」に由来しているというのが有力な説だ。
町内にある臨済宗の寺・崇徳寺は、高野瀬氏の菩提寺でもある。周辺の歴史にも詳しいご住職の高瀬俊英さん(79)が町内を案内してくださった。土塁跡、山王などの小字名から肥田城の姿が浮かび上がってくる。私たちが想像しがちな天守のある城ではない、平地城館である。
「野良田表の戦いは両軍一万を超す兵だったそうです。双方の戦死者の墓と言い伝えられてきた『北墓立』『南墓立』という小字もあります。ただ、発掘調査では何も見つからずじまいでした」。宇曽川の土手に立つと肥田、野良田の方がよく見渡せる。この地は長政の人生のターニングポイントということになるのだろう。
戦いは三女・江が生まれ、そして自身が自刃する13年前の話である。
参考文献
- 「戦国大名浅井氏と北近江│浅井三代から三姉妹へ│」長浜市長浜城歴史博物館 / 企画・編集・発行サンライズ出版 2008年
- 「わたしの町の戦国」解説シート 「肥田城跡」/ 彦根市教育委員会文化財部文化財課
崇徳寺
滋賀県彦根市肥田町527 / TEL: 0749-43-4510
寺には資料館があり、肥田城や町内の歴史を紹介している。入館料無料。開館時間や休館日などは特に決まっていない。
店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。
【編集部】