「石田群霊碑」参道整備
彦根市清凉寺
11月23日、第20回近江中世城跡「琵琶湖一周のろし駅伝」が行われた。佐和山は午前10時過ぎにのろしがあがった。前日は雨が降っていたが石田三成のイベントがあるときには必ず晴れるらしい。三成ファンの間では「治部少晴れ」という。僕はこの日の午後、「石田群霊碑」参道整備に参加した(三成の戦実行委員会主催)。
石田群霊碑の存在は一般にはほとんど知られていない。井伊家の菩提寺清凉寺にある(無許可の立ち入りは禁止)。 清凉寺は島左近の屋敷地であったことでも有名で、本堂裏手の墓地には、井伊直政から歴代蕃主の墓が整然と並んでいる。墓地を迂回するように山手を行くと、護国殿跡に至る。背後の急斜面を登り尾根を行くと、木立のなかに「石田群霊碑」がひっそりと立っている。
昨年に引き続き2回目の整備である。佐和山の西の丸上段曲輪に彦根市が立てた案内板があり、地図には竪堀を下って群霊碑に至るように描かれている。傾斜が急で危険が伴い、ルートを知らないと迷うこともある。更に、遺構破壊に繋がるかもしれない。
そこで、許可を得て、清凉寺から登ることができるルートを整備するのが目的である。今年は、武将隊(豊臣秀吉と大谷吉継)、佐和山ののろし隊、神奈川県や愛知県から参加した人々、ご住職夫妻とお母様もご一緒くださり、21名での整備となった。
参道の落ち葉を掃き、歩きやすいように木立の枝を落とす。倒木を並べてルートを作り、群霊碑を清め、斜面に落ちていた墓石をあげた。僕は昨年、倒れた墓石を動かして背中の筋がピシッと音がした。今年は慎重に行動したので、ほとんど役にたっていなかったかもしれない。
最後、ご住職が読経をしてくださるなか、皆で焼香をした。昨年より随分バージョンアップした参道整備だった。
ところで、この石田群霊碑はどういった経緯で建立されたのか。『三成伝説』(オンライン三成会編・サンライズ出版)には、「11代藩主直中の意向により、18世漢三和尚が建立したもので、当時、お家騒動が絶えなかった井伊家では、成仏しきれないでいる石田の霊の仕業だと恐れ、件の供養碑を建てたのだとも聞く」と書いてある。佐和山城落城はよほど悲惨な戦いだったのだろう。200年余りが過ぎても石田群霊を気にしていたのである。 当時のお家騒動とは何か。天寧寺(彦根市里根町)が建てられた理由に関係しているのではないかと思っていた。腰元若竹が、不義の子を身ごもったと知り激怒した直中はこれを重く罰し、お手打ちにした。後になって、若竹の相手が長男直清であることが明らかとなり、若竹と腹の子、すなわち初孫の菩提を弔うため天寧寺を建立し供養したといわれているからだ。文政2年(1819)のことである。石田群霊碑の建立は文化5年(1808)4月。時系列が合わない。井伊家に何があったのか、大きな宿題になった。
我が家の掃除や事務所の整理整頓は全くできないのだが、僕は成果が目に見える参道整備が好きである。来年もまた、参加すると決めている次第だ。
【小太郎】