江展望 2011
三姉妹の小谷城脱出ルートをたどる —こじき坂の伝承—
浅井三姉妹が生まれ育った小谷城は織田信長軍の攻撃により落城し、浅井長政は城内で自刃、長政の妻市と三姉妹は城外へ逃れた。母子の行き先には諸説あり、信長の居城・岐阜城とも、信長の弟の居城があった伊勢だともいわれている。近江には、三姉妹は旧浅井町平塚の実宰院(当時は実宰庵)にかくまわれたという説が伝えられている。実宰院は長政の姉・昌安見久尼の開基で、彼女は自ら姉妹を養育したという(江を知る — 洞寿院の葵と菊の紋参照)。実宰院説については、周辺に次の伝承が残っている。
—旧浅井町池奥と同町北野をまたぐ小高い山に「こじき坂」という山道がある。侍女に伴われ城を脱した三姉妹は小谷山中腹から東側の山道を下り、池奥へ着いた。ここで身分を隠すため野良着を借り、北野へ抜け、実宰院にたどりついた。以来この山道をこじき坂と呼ぶようになった。—
周辺のまちづくりに関わる川西章則さん(63)のご案内で、こじき坂を歩くことになった。池奥の集会所前のあぜ道から山へ入る。こじき坂は小谷山に連なる山との谷間にあたるようだ。「いつからこじき坂と呼ばれるようになったか詳しいことはわかりません。山中に集落の墓がありますから、今は墓参りに使う程度の山道ですが、以前はひんぱんに利用されていたようです。私の母は北野の出身で里帰りのときは近道になるからと使っていたそうです」。険しい道ではないが雪が残り歩きにくい。猪や鹿が徘徊している痕跡が至るところにあった。
三姉妹は小谷城の裏にあたる月所丸から脱出し人目を避けるためこの谷間を抜け、さらに田川づたいに逃げたと考えられ、実宰院までのルートが詳しく推定されている。
「当時の人々にとって、負けた武将の家族をかくまうのはよほどの覚悟が必要だったと思います。しかしこの地は浅井家のおひざもと。その心意気だけで三姉妹を守ろうとしたのでしょうね」。
ところで北野には同地の出身で、脱出に付き添った侍女・盛秀の墓がある。こじき坂は周辺の地理に詳しい者ならではの抜け道だったのだ。生後間もない江、茶々も初も幼児だった頃の話だ。盛秀は三姉妹を実宰院に届け北野へ戻ったといわれている。そののちは小谷城に向かって毎日手を合わせ、長政の冥福と、市と三姉妹の無事を祈ったという。
五先賢の館で現在ミニ企画展開催中(12月まで)
「浅井三姉妹軌跡 小谷城脱出 侍女盛秀伝説と墓」
脱出ルートの詳説紹介など
五先賢の館
滋賀県長浜市北野町1386 TEL: 0749-74-0560
開館時間 9:00〜17:00 / 休館日 水曜、祝日の翌日
入館料 大人300円、小中生150円
店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。
【編集部】