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    <title type="text">まち・文化 &#45; DADA Journal</title>
    <subtitle type="text">まち・文化:</subtitle>
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      <title>この冬は熊油でしっとり肌を守る！</title>
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      <published>2012-02-03T01:00:19Z</published>
      <updated>2012-01-23T05:28:25Z</updated>
      <author>
            <name>いと</name>
      </author>

      <category term="木之本町"
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        label="木之本町" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/8b23e2af899a8102da8d2d4aa77ad8ee.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/8b23e2af899a8102da8d2d4aa77ad8ee-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>藤田和司さん
</p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/ecc9a244d326e7eebe60228d4ec4930a.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/ecc9a244d326e7eebe60228d4ec4930a-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>あかぎれやしもやけに効くという
</p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/5be4a0535c661eab1ee8a9e9cbc9384f.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/5be4a0535c661eab1ee8a9e9cbc9384f-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>熊油
</p></div>

<p>　冬は大の苦手だ。寒さのせいばかりではない。乾燥による静電気と肌荒れが拍車をかけている。時に痒い。更に、手もがさがさ、ひび割れはひどくて悩みの種。ハンドクリームの類も色々と試しているが理想にはほど遠い……。JR木ノ本駅構内の物産販売所「おかん」で「熊油」を見つけて、手にしたことはいうまでもない。<br />
　熊油は字の如く、熊の油。製造しているのは、木之本町にお住まいで滋賀県猟友会伊香支部長の藤田和司さん（62）だ。猟師歴約40年のベテランである。毎冬、狩猟が解禁されると余呉の山を中心に猟をしている。藤田さんによると、熊油はあかぎれやしもやけなど皮膚の乾燥保護や疾患に効果があるという。<br />
　「熊をしとめるのは冬眠中が多く、雪山での猟になります。昔は暖かいブーツなどなく藁靴でしたから、仕留めた熊をふもとに下ろしてきたときには足はしもやけになっています。そんなとき熊の油を塗ってきました」。<br />
　熊油は、薬も防寒具もない時代の、猟師さんの知恵が生きた対処療法だったのだ。熊のどの部位の油でも同じ効果が得られるが、肉についた油は食用として使われる。藤田さんの熊油は、網油を弱火にかけたものを冷やし固めたもの。網油は、内臓を包む油のことだ。<br />
　「家内もあかぎれがひどいのですが、熊油を塗って治しています。それに添加物を加えていない、純粋な油だから口にしても大丈夫ですよ」。<br />
　手に付けてみると、ほんのわずかとっただけなのにものすごくよく伸びる。獣特有の匂いがあるかも…と思っていたのだが無臭、効果も期待できそうで嬉しくなった。温度が高くなると溶けてしまうので冷蔵庫に入れて保管すれば5年はもつそうだ。熊油でなら、乾燥を撃退し、上機嫌で湖国の冬を楽しむことができるかもしれない。</p>

<p>&nbsp;</p>
      ]]></content>
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    <entry>
      <title>ひこにゃん 田んぼアートから生まれた原酒</title>
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      <published>2012-01-18T01:00:06Z</published>
      <updated>2012-01-23T01:09:07Z</updated>
      <author>
            <name>椰子</name>
      </author>

      <category term="多賀町"
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        label="多賀町" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right" style="width: 200px;"><p>
<a href="/uploads/culture/f466be3b47e5c280697ca706e675b974.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/f466be3b47e5c280697ca706e675b974-200x267.jpg" width="200" height="267"  alt="" /></a></p>

<p>社長の福元修さん（左）と監査役の中川信子さん
</p></div>

<p>　彦根の荒神山のふもとにひこにゃん出現！昨年の夏から秋にかけて彦根市石寺町の田んぼに、稲で描かれたひこにゃんの絵が浮かび上がったのを覚えている。彦根市の市制75周年を記念した事業のひとつ「ひこにゃん田んぼアート」で、下石寺農業生産組合や滋賀県立大学の学生らが中心となり取り組んだ。<br />
　田んぼアートは、稲の種類による色の相違を利用して、水田をキャンバスにモチーフを描き出す。今回、ひこにゃんの輪郭は黒紫色の「濃紫稲」、赤い兜は「赤もち」、白い体は「ゆきあそび」など珍しい品種も使われ、ひこにゃんをかたどったという。<br />
　そして、秋に刈り取られた稲の一部は、多賀町の蔵元「多賀」が仕込んだ「琵琶の神龍（しんりゅう）」という日本酒に生まれ変わった。<br />
　多賀株式会社社長の福元修さん（61）と監査役の中川信子さん（53）の話によると、ひこにゃんの絵柄の背景部分から採れた米80俵（約4800㎏）を使って生まれたお酒だ。「日本晴」という品種で、酒造りに適しているという。<br />
　「琵琶の神龍」のラベルを見ると原酒と記されている。ふつう日本酒は搾った後に水を加えてアルコール度を下げるように調整するのだが、加水しない日本酒のことを原酒という。そのため、通常のアルコール度15〜17度に比べ、原酒は18〜20度程度になる。琵琶の神龍は19度だ。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/d5982a410db77cc75dad833b07e44abc.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/d5982a410db77cc75dad833b07e44abc-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>ひこにゃん田んぼアート
</p></div>

<p>　「原酒は水を加えない分、風味が濃厚です。絞りたてを加熱処理もせず出荷しているので、フレッシュですっきり辛口な飲み応えになっています。昨年は天候に恵まれたため米も良質でした」と教えてくださった。<br />
　日本酒の味の決め手は米と水と言っていい。芹川のほとりにある多賀株式会社では、鈴鹿山系の伏流水を使っている。硬度が高く、ミネラル分が多く含まれているのが特徴だ。そのミネラルが、発酵に不可欠な酵母に活力を与えるのだという。酵母は、麹の力で米を糖化させた糖分を食べてアルコールを出す、大きな役割を担っている。<br />
　「琵琶の神龍」という名前には、母なる琵琶湖を抱く大地で育ったお米を使ったお酒であること、そしてこの地で愛されてほしいという思いが込められている。「大地に描かれたひこにゃん米の記憶を、お酒という形で残せたことを喜んでいます」<br />
　2012年の干支は龍。新年を祝うお酒にもぴったりというわけだ。
</p>
      ]]></content>
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      <title>白龍現る！</title>
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      <id>tag:dada-journal.net,2012:culture/2.590</id>
      <published>2012-01-16T01:00:26Z</published>
      <updated>2012-01-10T00:44:05Z</updated>
      <author>
            <name>青緑</name>
      </author>

      <category term="長浜市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/nagahama/"
        label="長浜市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/d02cb3bb5471f55beb1fa9d6635372c1.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/d02cb3bb5471f55beb1fa9d6635372c1-260x175.jpg" width="260" height="174"  alt="" /></a></p></div>

<p>　平家の台頭から没落までを書いた「平家物語」（巻7）に、竹生島を舞台にした話がある。平経正（つねまさ）が、木曽義仲討伐に赴く道中に竹生島を訪れる「竹生島詣」だ。経正は平清盛の甥で、平家一門のなかでも詩歌管弦に優れ、琵琶の名手として知られた人物だ。<br />
——木曽義仲討伐のために、平家の兵たちは北陸を目指していた。隊の将軍である維盛、通盛は先に進んでいたが、副将軍であった経正、忠教らはまだ近江にとどまっていた。経正は湖岸から見える島を見て、家臣に「あれは何という島か」と尋ねたところ、「あれが名高い竹生島です」と教えられ、小船で竹生島参詣することにした。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/221d015587964b3e78000b085778383b.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/221d015587964b3e78000b085778383b-260x174.jpg" width="260" height="173"  alt="" /></a></p>

<p>琵琶のバチ / 竹生島宝厳寺
</p></div>

<p>　竹生島に上陸した経正は弁才天を参拝したのち、住み込みの僧に請われて、琵琶を弾いた。経正が琵琶の秘曲を奏でると、あまりに素晴らしい音色にだろうか、経正の袖元に白龍が現れた——。<br />
「当時、京の都ではここに参詣すれば願いが叶うと、竹生島の弁才天信仰は有名で、経正は戦勝祈願のため竹生島に渡ります。一方で、詩歌管弦に長じ、とりわけ琵琶の名手であった経正の噂は竹生島にも届いていました。僧たちは、経正の演奏をぜひ聴いてみたいと、『仙人の琵琶』と伝わる島の宝物でもある琵琶を手渡して演奏してもらったのです」。<br />
　竹生島の歴史文化に詳しい高月観音の里歴史民俗資料館の北村大輔さん（47）が教えてくださった。<br />
　経正が弾いた琵琶は、中世の火災で焼失してしまったそうだが、バチは今も竹生島に遺されている。<br />
——竹生島明神の霊験をあらたかにした経正は、義仲討伐の勝利を確信し、歌を詠む。「ちはやふる　神にいのりのかなへばや　しるくも色の　あらはれにける」（神に祈った願いが叶えられたのか　はっきりとしるしが現れたことだ）。一行は竹生島を後にし戦地へと向かったのだった——。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/74017c6f7c66ce744ba3ec254cf42b9e.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/74017c6f7c66ce744ba3ec254cf42b9e-260x190.jpg" width="260" height="190"  alt="" /></a></p>

<p>平経正像（絵馬）/ 竹生島宝厳寺
</p></div>

<p>　「経正は、義仲を討つための戦闘に向かっていて、しかも隊列に遅れているわけだから、本来なら竹生島に立ち寄っている場合ではなかった。けれど当時の名高い観光名所をどうしても見たいという感覚だったのでしょう。経正をはじめ平家の人々は、最後まで貴族的な、雅な感覚というのが抜けなかったのでしょうね」と北村さんは推測する。<br />
　義仲との戦いはどうだったのか。富山県と石川県の境の倶利伽羅峠で平家は大敗。経正は、その後の一ノ谷の戦いで命を落とした。<br />
　ちなみに、平経正が琵琶を奏した場所は、現在の都久夫須麻神社拝殿だと伝えられている。神仏をも感動させる音楽を奏でなければならないが、辰年の今年は、いざ、竹生島へ……。</p>

<p>
</p><h3>参考文献</h3>
<ul>
<li>「平家物語（七）」杉本圭三郎全訳注&nbsp; 講談社</li>
<li>「戦国武将の竹生島信仰」長浜市長浜城歴史博物館執筆・編集 竹生島宝厳寺発行</li>
<li>「神を斎く島のメモリー 竹生島」びわ町観光協会刊</li>
</ul>
      ]]></content>
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    <entry>
      <title>更新する山を目指して！</title>
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      <id>tag:dada-journal.net,2012:culture/2.589</id>
      <published>2012-01-13T01:00:26Z</published>
      <updated>2012-01-10T00:33:04Z</updated>
      <author>
            <name>いと</name>
      </author>

      <category term="東近江市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/higashiomi/"
        label="東近江市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/a2d967db14e001e84ae6248d4b9c614f.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/a2d967db14e001e84ae6248d4b9c614f-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>村山英志さん
</p></div>

<p>　「薪 売ります」。<br />
　旧愛東町の田園地帯にこんな看板が立っている。薪（まき）を専門に販売する「薪遊庭」である。<br />
　私の場合、薪は郷愁を誘う。祖父母の家に五右衛門風呂があり、薪割りを手伝うことがあった。実に懐かしい……。薪は思い出の中に存在する。<br />
　薪とは燃料となる木材のことを指す。薪遊庭では、東近江市の山々から伐採した木を、代表の村山英志さん（47）らスタッフが専用の機械を使って薪割りをし、乾燥させ販売している。伐採しただけでは薪にはならないのだ。<br />
　「薪に適しているのは、楢や樫、桜や欅などの広葉樹です。燃やしたときに木が燃え盛るのではなく、赤くいこった状態が続くんです。いこりは遠赤外線の効果で、暖かさが長続きします。逆に針葉樹は火はつきやすいけれど燃え尽きるのも早いので、火付け用として使います。桜や欅は独特の香りがあって好まれますし、木の特徴を生かして使い分けます」。<br />
　良い薪の条件は乾燥していることだ。木が水分を吸い上げない冬場に伐採し、夏場に乾燥させる。一度乾燥させれば、保管時に多少雨が当たっても大きな支障はないという。<br />
　村山さんが薪の普及に熱心なのは、里山の保全活動で山の現状を知ったことが大きい。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/1181c7395ff3172688ebdcfa129fa3e3.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/1181c7395ff3172688ebdcfa129fa3e3-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

</div>

<p>　「広葉樹は20〜30年成長すると酸素の放出が少なくなります。この頃に木を伐っても、切り株を残せば芽が出るので、また成長していく。切り株から出た芽さえあれば1本の木は100回更新できます。更新ごとに木の呼吸が活発になり、酸素が増えます。つい数十年前まで暮らしに必要な燃料は薪で、人間が山に入って木の更新に関わることで生態の循環が成り立っていたんです」。<br />
　時々聞く、広範囲に渡る松枯れなどは、山に入らず木を伐らなくなってしまったことも、原因だそうだ。昔は山に頻繁に入っているから虫がついた木を見つけたら伐採し、被害の拡大を阻止できたのだ。「近隣の山々を『更新していける山』にしていきたいと思っています。私たちは薪を販売していますが、本来なら住んでいる近くの山の木を使ってもらうのが一番なんです」。<br />
　薪遊庭の事務所には薪ストーブがある。部屋中がぽかぽかと暖かい。暖炉と違い木をくべるところに窓があり、これが薪を無駄なく効率的に使える仕組みだ。火を見ていると飽きることがない。<br />
　「癒されたり、元気がわいてきたり……人間の本能的な部分に触れるんでしょうね」。<br />
　薪遊庭は、薪を普及させるために、薪が燃料となる薪ストーブをまずは広めようと薪ストーブの取扱い、設置の施工をしている。さらには薪ストーブの開発までも手がけられるようになったそうだ。<br />
　エアコン、ストーブ、床暖房……。今様々にある暖をとる選択肢に「薪」が浸透すれば素敵だと思う。
</p>
      ]]></content>
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      <title>初詣は、高宮宿・一の鳥居で</title>
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      <published>2012-01-11T01:00:26Z</published>
      <updated>2012-01-10T00:53:22Z</updated>
      <author>
            <name>小太郎</name>
      </author>

      <category term="彦根市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/hikone/"
        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/c2d9ef41f98f7a27e8241a2673504755.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/c2d9ef41f98f7a27e8241a2673504755-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>写真1 2006年8月1日撮影
</p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/15b7c261a5e5bbb919453b201e4d128c.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/15b7c261a5e5bbb919453b201e4d128c-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>写真2 2012年1月4日撮影
</p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/c97814dcc8e95cea367bee99bddf4ed0.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/c97814dcc8e95cea367bee99bddf4ed0-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>写真3 賽銭箱
</p></div>

<p>　中山道高宮宿に大鳥居がある。交差点の名前も「高宮鳥居前」で、とても判りやすい。ただ、いつもここを車で通る時には、ここからは多賀大社の神域、いいのかなぁと少し気になったりするのだ。鳥居の起源は明らかではないが、俗なる人の領域と神聖なる領域の境に建てられたことは確かで、かつてこの鳥居から多賀方面は神域だった……。<br />
　中山道高宮宿は、中山道六十九次（東海道の草津、大津を含む）のうち江戸から六十四番目。天保14年（1843）の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間（約800m）、総戸数835軒、人口3560人、中山道第二の宿場だったとある。また多賀大社への門前町としても賑わい、中山道と多賀道の分岐点に多賀大社一の鳥居が建っているわけである。現在、この鳥居は県の文化財に指定され、柱と柱の間約8メートル、高さ約11メートル、柱の直径は約1・2メートルあり、県下の石の鳥居としては最大である。寛永12年（1635）の建立で、ここから多賀大社まで約3キロメートルである。<br />
　写真1は、2006年8月1日、写真2は2012年1月4日にそれぞれ撮影したものだ（写真3は賽銭箱）。天候やアングルの違いは別として、明らかに賽銭箱が新しくなっている。僕が気づいたのは昨年だった。鳥居横の賽銭箱が新しくなって始めて気づいた。高宮の友人に尋ねると、新しくなったのは昨年で、今でもお年寄りが賽銭を入れて祈る姿を見かけるという。そして、何時頃からそこにあったのか判らないが、ずっとこの場所にあったらしいという……。多分、ここに鳥居が建った1635年からだろうという推測も決して間違いではないだろう。<br />
　多賀大社は、天照大神をはじめとする八百万の神々をお産みになった、親神様、イザナギ・イザナミを祀る神社であることは広く知られ、古くから「お多賀さん」の名で延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として、信仰を集めている。鎌倉から江戸時代にかけては、武家の信仰も篤く、近年の戦国ブームで浅井長政、豊臣秀吉との関係はマスコミにも数多く取り上げられ、多くの人の知るところとなった。<br />
　道中を急ぐ旅人がいる……。「お伊勢参らば　お多賀へ参れ　お伊勢お多賀の子でござるお伊勢七度　熊野へ三度　お多賀さまへは月参り」と、一の鳥居で賽銭を入れ、延命長寿、縁結びを祈る姿があったに違いない。<br />
　そこで、ふと考えた。実は、僕は今、この時点（1月4日）で多賀大社への初詣に行っていない。多賀大社へは約3キロメートルである……。このまま走れば5分とかからない。しかし、初詣の渋滞は避けられないだろう。しかも、駐車料金もかかる。境内は賑わっているが、ここは僕独り、賽銭箱も新しい。ここから祈れば目立つに違いない……。現代も道中を急ぐ旅人は存在するのである。</p>

<p>&nbsp;</p>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>ビー玉の向こう側</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/593/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2012:culture/2.593</id>
      <published>2012-01-08T01:09:42Z</published>
      <updated>2012-01-10T01:10:43Z</updated>
      <author>
            <name>小太郎</name>
      </author>

      <content type="html"><![CDATA[
<p>　新しい年だ。今年もよろしくお願いいたしますと、新年の挨拶をしてはいるが、毎年のように「おめでとうございます」というのは、誰もかれも様子が違っているような気がする。漠然と、この国の未来に何かしらの不安を抱えているのだろう。正月に書くはずのビー玉の記事を断念した。半透明なビー玉を通して見る向こう側の世界が僕には想像し難かった……。<br />
　しかし、難しかろうがどうであれ、無理矢理にでも思い描かないと駄目なんじゃないかと今は考えている。それが、前へ進むということなんだろうと、これまた漠然とだがそう何処かで考えているので、今年の正月はちょっとしんどい。<br />
　昨年、メダカの孵化に成功して以来、冬になってもまだ産卵が続き、2012年生まれのメダカもいて、小さなプラントは少しずつ領土を広げている。何処かでキリをつけないと、永遠に繰り返すことになると解っていながら、毎日世話をしている。猫も相変わらず、今年18年目をむかえる。<br />
　だから、僕らはビー玉の向こう側を見てしまった以上、全てを了解し、不安など無い振りをしながら堂々と、生きていたいと切実なほど、願うのである。今年も、本当によろしくと……。</p>


      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>源頼朝が戦勝祈願した「旗神さま」</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/584/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2012:culture/2.584</id>
      <published>2012-01-02T01:00:49Z</published>
      <updated>2011-12-26T02:28:32Z</updated>
      <author>
            <name>青緑</name>
      </author>

      <category term="愛荘町"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/aisho/"
        label="愛荘町" />
      <content type="html"><![CDATA[
<blockquote><p>
　祇園精舎の鐘の声　諸行無常の響きあり<br />
　沙羅双樹の花の色　盛者必衰の理をあらはす<br />
　おごれる人も久しからず　ただ春の夜の夢のごとし<br />
　たけき者もつひには滅びぬ　ひとへに風の前の塵に同じ
</p></blockquote>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/f6b6eabef699988ab75eb330b751fffa.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/f6b6eabef699988ab75eb330b751fffa-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>愛荘町の豊満神社
</p></div>

<p>　平家の栄枯盛衰を描いた平家物語の冒頭である。学生の頃、暗記した人も多いだろう。物語のなかで、死の間際に平清盛は「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と語っている。この辺りになると勉強したのかどうかも曖昧だが、その頼朝は鎌倉幕府の初代征夷大将軍だ。ここから江戸末期まで約700年に渡り征夷大将軍を長とする武家政権が続くのである。<br />
　さて、頼朝が戦勝祈願したと伝わるのが、愛荘町にある豊満神社だ。<br />
「神社のご祭神の一柱が神功皇后（息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと）です。お腹に子どもを宿しながら朝鮮に出兵した『三韓征伐』で知られる神様です。その活躍にあやかって、神社の竹を旗ざおに使えば戦いに勝利できるという伝承が生まれ、頼朝公も祈願したと伝わっています」と宮司の大橋良造さん（46）が教えてくださった。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/b5c2acdac0df3e9406092af5cdde0af1.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/b5c2acdac0df3e9406092af5cdde0af1-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p>

<p>管粥占神事
</p></div>

<p>　以来、近江の守護佐々木氏、六角氏、豊臣秀次などの武将が武運祈願をしたとされている。<br />
　伝承から豊満神社は「旗神さま」とも呼ばれるようになり、彦根城主井伊家からも保護され、竹林の伐採禁止令が出されている。第二次世界大戦の際も出兵する人々が数多く参拝に訪れたという。<br />
　二の鳥居をくぐって右手、境内社の祠のそばに竹林が残っている。現在この竹が使われるのは、正月に行われる「管粥占（つつがゆうらない）」の神事のときのみだ。縦半分に切れ目を入れた竹を米・小豆と一緒に炊き、竹の中に入りこんだ米・小豆の量で豊作を占うそうだ。<br />
「平和な時代になりましたから、当社で祈願される内容も試合や選挙の必勝祈願などが多いですね。竹は勝手に伐採されると困りますが、ご依頼があればお分けすることはできます」。<br />
　拝殿には武将たちが描かれた額がある。源平にちなんでか牛若丸と弁慶らしき絵もある。来年の大河ドラマ「平清盛」では、貴族社会から武士の時代、そして貿易の時代を切り拓いた人物の生き様が描かれるようだ。</p>

<p>
</p><div class="three cf">
<div class="imgbox left"><p>
<a href="/uploads/culture/95c9f0d90f2ee813f17f9b78444f77c4.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/95c9f0d90f2ee813f17f9b78444f77c4-210x160.jpg" width="210" height="159"  alt="" /></a></p>

<p>大河ドラマにちなんだお守り
</p></div>
<div class="imgbox left"><p>
<a href="/uploads/culture/b540da4e6a05553977bef78dca34939e.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/b540da4e6a05553977bef78dca34939e-210x158.jpg" width="210" height="158"  alt="" /></a></p></div>
<div class="imgbox left"><p>
<a href="/uploads/culture/125ad0912a429a9d2dda260dcabce9ee.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/125ad0912a429a9d2dda260dcabce9ee-210x158.jpg" width="210" height="158"  alt="" /></a></p></div>
</div>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>ほたてあかりがつなぐ、東北と滋賀</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/583/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2011:culture/2.583</id>
      <published>2011-12-28T01:00:10Z</published>
      <updated>2012-01-10T04:17:12Z</updated>
      <author>
            <name>編集部</name>
      </author>

      <category term="彦根市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/hikone/"
        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/f0b41be8ea99c918d7553ecf72dccb9e.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/f0b41be8ea99c918d7553ecf72dccb9e-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>

<p>　宮城県本吉郡南三陸町歌津田の浦地区。滋賀県立大学の学生である私たちが、はじめて訪れたのは8月のことだった。以来、毎月2日間ほど田の浦を訪れている。<br />
　田の浦は世帯数約100戸、人口約400人の集落。特にホタテ・ホヤ・ワカメの養殖は近辺でも屈指の漁獲高を誇り、17世帯が漁業で生計を立てていた。養殖業は一家総出で行われる。女性たちも海に出てワカメを刈り、港でホヤをもぐ。しかし、養殖業の本格的な復興には数年かかるといわれており、それまで女性たちは働く場を失った。<br />
　秋晴れの10月、チューリップの球根を持って行った。海水を被った土を、田の浦のお母さんたちと一緒に耕し、球根をひとつずつ植えていく。穏やかな海を眺めながら、ひと休み。「仕事が趣味のように働いてきたからっさぁ、こういう風に時間が出来ても、遊び方が分かんないのね」。お母さんたちがぽつりと言った。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/aeaa31d1424f0499e993b2304695ba63.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/aeaa31d1424f0499e993b2304695ba63-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>

<p>　滋賀への帰り道、一緒に行ったメンバーは話し合った。仮設住宅という場所はある。しかし、ただ集まってお茶を飲むのは、働き者のお母さんたちも居心地が悪いだろう。何か皆で集まって作業でもしながらワイワイ話す方がいいのではないか。材料にコストがかからず、道具や技術に特殊なものが要らない、そして少しでも売れるようなものを作れれば生活の足しになる。<br />
　そこで出てきた案が、養殖用にストックされ現在使い道の無いホタテの貝殻と、滋賀のお寺で出る和蝋燭の残蝋を使ったリサイクルキャンドル作りだった。<br />
　それから2ヶ月間、大学でメンバーを募り、15人が材料集めや商品開発を行った。そして、田の浦のお母さんたちとも相談して誕生したのが「ほたてあかり」である。<br />
　「ほたてあかり」のお披露目の日、火を灯すとお母さんたちが「素朴な感じがさぁ、田の浦らしいよね」と言った。<br />
　震災復興支援商品「ほたてあかり」の本格的製造は12月から始まった。毎朝9時には皆仮設住宅に集まり作業が始まる。玄関には所狭しと長靴が並んでいる。「まだ、早いんでねぇか？」「大丈夫だいっちゃぁ」「ほら、上手く出来たぁ」「今朝、アンコウ獲れたってよぉ。とうちゃんが言ってたぁ」。6畳2間と台所に10人ほどの女性たち。浜の女性の働きぶりは、見とれるほどのスピードである。会話が飛び交い、今まで見た中で一番いきいきとした笑顔がある。</p>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/f2877156bfaf8d298752ae6189f5d4e7.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/f2877156bfaf8d298752ae6189f5d4e7-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>

<p>　「ほたてあかり」には、ひとつひとつメッセージが書かれている。買ってくれる誰かを思って、お母さんたちがひとつひとつ考えながら書いている。二枚貝のホタテ。もう一枚の貝殻には、買ってくれた人がメッセージを書いて、田の浦に送り返すことができる。<br />
　はじめて「ほたてあかり」が売れた日、お母さんたちに電話をした。たくさん売れたことに対する第一声が「何個売れたの」ではなく「どんな人が買ってくれたの？」だった。<br />
　「ほたてあかり」が、遠く離れていても、田の浦のお母さんたちと買ってくれた誰かの心をつないでいって欲しい、そう願っている。<br />
<br />
</p><p class="align-right">滋賀県立大学院 人間文化学研究科
地域学研究室　山形 蓮</p>

<p>&nbsp;</p>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>淡海の妖怪 年末編</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/579/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2011:culture/2.579</id>
      <published>2011-12-21T01:00:19Z</published>
      <updated>2011-12-14T02:09:06Z</updated>
      <author>
            <name>淡海妖怪学波</name>
      </author>

      <category term="彦根市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/hikone/"
        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/20070c273a5a26d08bc36d325359465f.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/20070c273a5a26d08bc36d325359465f-240x530.jpg" width="240" height="530"  alt="" /></a></p></div>

<p>　12月3日・4日、<a href="http://kuuno.jp/" class="external">彦根ゴーストツアー「黒い烏の章」</a>が行われた。見えないモノを『ゴースト』と位置づけ、現世と幽世の狭間を巡る旅である。キャッチコピーは、『Don’t  think .....Just FEEL IT!』彦根市後三条町の長久寺「お菊の皿」、犬上郡多賀町の真如寺「地獄絵図（十王掛図）」、多賀大社の「お日供祭」「先喰烏・先喰台」を巡った。僕も、勿論参加した。思ったことは「闇の濃さ」だ。闇の濃度が神聖さを感じるには必要だということだ。同じく「怪」を感じるにも闇に左右される。瞼を閉じると闇が支配するが、瞼はわずかだが光を透過している。かつての闇と現代の闇は異なっている。そして、伝承や儀式が今もそのまま残り受け継がれているのは、何かしらのより強い意味があったということである。意味があったこと自体が今は忘れられていることが多い……、現代に残された現世と幽世の狭間は年末のトイレ（厠・便所）だなと……考えていた。<br />
　かつて、現世と幽世を結ぶ道が厠にあると考えられていた時代があった。故に神様（妖怪）が今もそこにいる。<br />
　最も近親感のあるのが烏枢沙摩明王（うすさまみょうおう）だ。毎年、大晦日から新年にかけてトイレのお札を新しくする家も多いだろう。烏枢沙摩明王は炎の神様で、この世の一切の汚れを焼き尽くすとされ、不浄を清浄と化す明王である。故に、烏枢沙摩明王は不浄な場所に祀ることになっている。厠は、現世と幽世を結ぶ道なのだから、怨霊や悪魔の出入口でもある（そういう思想があった）。烏枢沙摩明王の炎によって清浄な場所に変えていただこうという信仰が、お札の神力を頼みとするカタチで残っているのである。<br />
　そして、最も有名な妖怪はガンバリニュウドウだろう。漢字は「加牟波理入道」あるいは、「雁婆梨入道」と書く。江戸時代に信じられていた厠の妖怪である。<br />
　江戸時代の浮世絵師鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には、厠の脇で口から鳥を吹き出しているような姿で描かれており、『大晦日の夜、厠に行きて「がんばり入道郭公（ほとゝきす）」と唱ふれば、妖怪を見ざるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠神の名を郭登（くはくとう）といへり。これ遊天飛騎大殺将軍とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日の談なるべし』（『鳥山石燕 画図百鬼夜行』国書刊行会）と石燕は記している。<br />
　要するに大晦日の夜にトイレに行って「ガンバリニュウドウ ホトトギス」と言えば、新しい年に加牟波理入道は出て来ないというわけである。<br />
　ところで、同書の解説には『郭登（かくとう）は明の武将。しかし、厠の神なら、紫姑神（しこじん）の方が知られる』とある。紫姑神とは、日本の厠の神様のルーツとなる神様だが、中国の話である。様々なバリエーションがあり、だいたいのストーリーは次のようなものである。『言い伝えによれば、県知事が、何眉（かび）という女性を迎えたが本妻がそれを妬んで、旧暦の一月十五日に便所で何眉を殺害した。後に何眉の死を哀れんだ人々が、正月ごとに便所の神として何眉を祀るようになった。』<br />
　年越しに便所神を祀るという風習は紫姑神からということになるのだろう。古く節分の夜を年越しとし、便所の神様を祀る風習もあったらしい。そういう意味では、「カイナデ」という妖怪が節分に現れるのも紫姑神をルーツとするからだろう。「カイナゼ」とも呼ばれるが、節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」と呪文を唱えればいいらしい。<br />
　ところで、トイレに出没する妖怪が後を絶たない。有名なところでは「トイレの花子さん」がいる。学校の怪談として80年代から子供たちの間で語られ、多くは小学校の便所に現れる妖怪である。地域ごとに違いがあり、小学校のある特定の便所に現れ、「はーなーこーさーん」と呼びかけると返事をするパターンが多い。返事をするだけのもの、「赤い紙」の問いかけをしてくるもの、トイレに引きずり込もうとするものなど、様々である。<br />
　時代は変わっても、現世と幽世を結ぶ道がトイレ（厠）にあると、なんとなく感じているからだろうか、この場所は神を祀る場所であり、怨霊や悪魔の通り道であることに変わりはないようだ。
</p>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>歴史に二人の源義経あり！</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/578/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2011:culture/2.578</id>
      <published>2011-12-19T01:00:19Z</published>
      <updated>2011-12-14T02:04:04Z</updated>
      <author>
            <name>青緑</name>
      </author>

      <category term="湖北町"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/kohoku/"
        label="湖北町" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/46b812b25b27d5c269e1960e5586a813.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/46b812b25b27d5c269e1960e5586a813-200x267.jpg" width="200" height="267"  alt="" /></a></p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/685a40171821fccd5c3b8cc804640636.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/685a40171821fccd5c3b8cc804640636-200x267.jpg" width="200" height="267"  alt="" /></a></p></div>

<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/e7480ad1e4981a709724fc6460e64b65.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/e7480ad1e4981a709724fc6460e64b65-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>

<p>　「歴史に二人の義経あり！」平家打倒の最大の労を功したのは「源（九郎）義経」、そして、彼とほぼ時期を同じくして活躍したもう一人の義経がいた。湖北出身の「源（山本）義経」である。<br />
　聞くところによると、九郎義経は源義家の子孫で、源平の合戦で華々しく登場し、悲劇の最期を遂げた英雄である。一方、山本義経は義家の弟「新羅三郎義光」の子孫だという。山本義経の名は山本山（長浜市湖北町山本）を拠点にしたことにちなむという。山本山の登山口にある朝日山神社にはこんな伝承がある。<br />
　—源頼朝が平家追討の旗を上げ、各地で源氏が蜂起し、呼応した山本義経は、軍議の際、境内の松に鎧をかけたことから、その松を「よろいかけの松」と呼ぶようになった—。境内に残る松は何代目かになると、長浜市文化財保護センターの山﨑清和さん（55）が教えてくださった。<br />
　『玉葉（平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された公家九条兼実の日記）』や『吾妻鏡（鎌倉時代に成立した歴史書）』によると、治承4年（1180）、山本義経ら近江の源氏は琵琶湖の水運をおさえるなどして京の平家を押さえ込もうとしたが、「平家随一の知将」ともいわれた平清盛の4男・平知盛軍が出陣。近江を北上し、山本山を攻撃したことが記されている。山本山は落城するが、山本義経は敗走し鎌倉にいた頼朝と会見する。自らを平家追討の先陣にしてほしいと願い出たのだ。そして約3年の後、山本義経は、頼朝の元を離れ木曽義仲の軍に加わり、義仲軍は「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を破った。</p>

<p>　山本山には義仲にちなんだ言い伝えもある。<br />
　—義仲は上洛の途中山本山に陣を布いた。そのときに義仲の愛妾巴御前の産んだ子がすぐに亡くなってしまった。義仲は子を葬り、五輪塔を建て松を植えた。わが子を思い振り返りつつ京へ向かったため、この松を「みかえりの松」と呼ぶようになった—。言い伝えられている塔は、山本の集落のはずれに残っている。<br />
　なぜ山本義経は頼朝から離れ義仲についたのだろう。「湖北が拠点の山本義経にしてみれば、木曽から京へと攻める義仲とは距離的に近いという地理的なことではないでしょうか」と山﨑さんは推測する。<br />
　平家を追討した功労により、山本義経も昇格する。しかしその期間はわずかであった。京での狼藉が目立った義仲を追討する勅命が頼朝に下ったのだ。実動部隊として動いたのは源九郎義経。かたや義仲軍の山本義経。「宇治川の戦い」でふたりの義経は対峙することになった…。義仲軍は敗れ、義仲は大津の粟津で討たれ、山本義経も歴史の表舞台から姿を消すことになる。<br />
　「今でこそ義経といえば九郎義経を指しますが、当時の都から見れば辺境の奥州で過ごしていた九郎義経より、義仲の片腕として活躍した山本義経の方が有名であったはずです。宇治川の戦いでふたりの知名度が逆転してしまったのでしょう」。</p>

<p>　2012年のNHK大河ドラマは「平清盛」である。山本義経の登場は期待できないが、DADAではしばらく、源平縁の地を追いかけていくことにする。<br />
　<br />
　
</p>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>Don’t  think of something&#8230;.., just FEEL IT!</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/569/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2011:culture/2.569</id>
      <published>2011-11-27T00:25:39Z</published>
      <updated>2011-11-29T00:38:40Z</updated>
      <author>
            <name>小太郎</name>
      </author>

      <category term="彦根市"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/hikone/"
        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/ac2faaa98bd7bc0c73c71d5e934fe82b.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/ac2faaa98bd7bc0c73c71d5e934fe82b-260x256.jpg" width="260" height="256"  alt="" /></a></p></div>

<p>　Don’t  think of something ....., just FEEL IT.「彦根ゴーストツアー」のキャッチコピーだ。記憶が正しければ、ニュアンスは違うが……、そのようなことを、映画「スター・ウォーズ」で、若き日のルーク・スカイウォーカーにヨーダが言ったように思う。「考えるな！感じよ！」。<br />
　「見えないものを見ることができるかもしれない旅」は、滋賀大学経済学部の真鍋晶子教授が代表を務める『空（くう）の旅人舎』が企画している。｢島根県立大学短期大学部教授・小泉八雲記念館顧問の小泉凡先生に『城下町で文化資源を生かす！松江ゴーストツアーと造形美術展の取組から」と題し、ご講演いただきました。小泉先生は、小泉八雲（ラフカディオ・ハーン）の曾孫にあたります。空（くう）の旅人舎は、小泉凡先生のご経験と「松江ゴーストツアー」に学びながら、『見えないもの』を『ゴースト』と位置づけ、現世（うつしよ）と幽世（かくりよ）の狭間を旅することで、マニアックに湖東・湖北に遺る未評価の文化を紡いでみたいと思います」。彦根ゴーストツアーは、「黒い烏の章」に始まり、「白い狐の章」「青い龍の章」と続くという。<br />
　「黒い烏の章」は、以前から一度ちゃんと見ておきたいと思っていながら、その機会に恵まれずにいた彦根の長久寺に遺る「お菊の皿」や多賀大社の「先喰台（せんじきだい）」などがツアーに組み込まれているので是非、参加したいと思っている（実は、既に申し込んである）。その他にも、僕が特に気持ちが動くのは、早朝の多賀大社……。未だ明け切らぬ神聖な場所を彷徨ってみたい。そして、真如寺の「地獄絵（十王掛図）」。<br />
地獄絵とは、冥土で、7日目ごとに7回、十王によって行われる審判の様子を絵にしたもので、善業を重ねるよう絵解きで教えるためのものだと聞いている。<br />
　十王の審判は、「五戒」について生前の善行・悪行の審理によって行われる。<br />
　「五戒」とは、仏教において守らなければならない5つの戒めだ。『不殺生戒（ふせっしょうかい）・みだりに生物を殺してはならない / 不偸盗戒（ふちゅうとうかい）・他人のものを盗んではならない / 不邪淫戒（ふじゃいんかい）・性生活が淫らであってはならない / 不妄語戒（ふもうごかい）・うそをついてはならない / 不飲酒戒（ふおんじゅかい）・酒を飲んではならない』。（なかなか難しい）。それぞれ審判の日に、現世（この世の側）で遺族が供養をすると、積まれた善業が故人にも及び、故人が善い世界に生まれ変われると教える。葬儀のあと7日ごとに追善供養をするのも、故人を思う故のことである。<br />
　冥土の審判を、想像力が及ぶ限りビジュアル化したものが地獄絵なのかもしれない。現代、僕らの気持ちにはどのように映るのだろう……。<br />
　ヨーダはルークに「考えるな！感じよ！」と言った。目に見えないものを見ることができるかもしれない旅は、僕らが感じることをしなくなったコトやモノ、失ってしまったもの、或いは失いつつある気持ちを探す旅なのかもしれない。過去に人々が見ていたはずの見えない世界がそこにあるはずだ。小泉八雲の『感情的価値』を、僕らはこのツアーで体験することができるのだろうか。最終日、小泉凡先生の食談に期待したい。
</p>
      ]]></content>
    </entry>

    <entry>
      <title>手作り甲冑がとりもつ縁</title>
      <link rel="alternate" type="text/html" href="http://dada-journal.net/culture/articles/565/?ref=ifeed" />
      <id>tag:dada-journal.net,2011:culture/2.565</id>
      <published>2011-11-23T01:00:38Z</published>
      <updated>2011-11-16T02:28:22Z</updated>
      <author>
            <name>いと</name>
      </author>

      <category term="甲良町"
        scheme="http://dada-journal.net/area/c/koura/"
        label="甲良町" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/9d42b3018185f4c18c69de2ace6e6b4c.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/9d42b3018185f4c18c69de2ace6e6b4c-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/9c19900d41d5825cdb0559ffe3a409a4.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/9c19900d41d5825cdb0559ffe3a409a4-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/6fdc2adc68acae59f8e9acdaedbf194c.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/6fdc2adc68acae59f8e9acdaedbf194c-260x195.jpg" width="260" height="195"  alt="" /></a></p></div>

<p>　10月末日。早朝に降った雨は止んでいたものの、空模様を気にしながら甲良町へと向かった。甲良町尼子の「甲良甲冑隊」武者行列を見に行くためだった。区の文化祭の催し物のひとつで、甲良甲冑隊は、「近江尼子武者隊」（尼子）と「高虎甲冑隊」（在士）のメンバーが合同したグループである。集落の子どもたちも行列に加わり、12人の武者が勇ましい足取りで集落を進んでいった。通りにはずらりと集落の人。カメラが向けられ、拍手が起こっていた。<br />
　尼子は、バサラ大名の異名をもつ佐々木道誉の孫・高久が屋敷を構え尼子姓を名乗ったところだ。その後、尼子氏は近江と出雲に別れ、出雲に移った尼子氏は戦国時代に中国地方で一大勢力を築いた。行列の出発地の住泉寺は、かつて尼子氏の居館、尼子城があった場所だ。また在士は、築城工事に優れ、江戸城の改築など天下の普請に関わった武将・藤堂高虎の出生地である。<br />
　近江尼子武者隊は青系、高虎甲冑隊は紫系の色で甲冑のデザインをまとめている。それぞれ尼子氏、高虎をイメージしている。<br />
　甲冑は紙製で、メンバーの手作りである。<br />
　甲冑の製作が始まったのは去年。高虎のゆかりの地4市町が集う「高虎サミット」が甲良町で開催され、尼子氏、高虎公のそれぞれの顕彰会がタッグを組み、サミットを盛り上げるため甲冑行列を計画したのがきっかけだ。<br />
　天候を気にしていたのは甲冑が紙製ゆえだったからだ。しかし少々の雨ならものともしない丈夫な造りである。実は去年の製作現場にお邪魔させてもらっていた。型をとったダンボール状の厚紙を、ニスやうどん粉を使って耐強させ、塗料を塗り、飾り紐などで装飾していく。鎧かぶと一領につき200以上あるというパーツを、メンバーが分担してつなぎあわせ、仕上げていく。手間隙のかかる作業が印象的だった。<br />
　「尼子の文化祭に在士の皆さんが協力してくださいました。共に甲冑を作ったことで日々の生活にも交流が生まれ、人と人とのつながりを、甲冑が取り持ってくれました。いずれ、甲良町全体で甲冑隊を結成し、絆を深めていくことができればうれしいですね。甲冑作りは応援にかけつけます」と甲良甲冑隊の隊長である坪内治義さん（71）が教えてくださった。<br />
　甲冑が取り持つ縁。私もまたその縁でつながった一人である。</p>

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      <title>ゼロ泊3日カロムな旅</title>
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      <published>2011-11-16T01:00:38Z</published>
      <updated>2011-11-16T02:39:41Z</updated>
      <author>
            <name>編集部</name>
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      <category term="彦根市"
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        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
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<div class="imgbox right"><p>
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<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/cc4f9bfa2a25a2d64a308bfa93bac50f.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/cc4f9bfa2a25a2d64a308bfa93bac50f-260x174.jpg" width="260" height="173"  alt="" /></a></p></div>

<p>　カロムのこととなると、特別である。10月29日、福島県いわき市いわき中央台公民館で、ハロウィン祭り&amp;カロム大会が行われる。行かなくては……、ゼロ泊3日の無謀な旅に出た。<br />
　東北大震災から7ヶ月あまり、そこには、復興を願う人たちがつくりあげた、いわきのカロム盤があった。<br />
　「みんなともだちプロジェクト in いわき」の原田由香さんに話を聞いた。<br />
　「シンガーソング絵本ライターの中川ひろたかさんが、『<a href="http://www.songbookcafe.com/" class="external" target="_blank">みんなともだちプロジェクト</a>』を立ち上げ、震災復興のために、『そうだ!カロムを東北で作って、復興の手伝いをしよう』ということになって、福島県いわき市で始めることになりました」。<br />
　カロムに関する知識は全くなかったそうだ。『カロムロード』（杉原正樹編著 / サンライズ出版）を読んで勉強し、カロム盤の試作を繰り返し、良いものを作ろうと2ヶ月を費やしたという。家具屋さん、木工所さん、印刷屋さん、障害者施設のみなさん、建築関係の方、主婦の方々が集まっての製作だった。盤の中央には、絵本作家の村上康成さんが描くプロジェクトのシンボル「福島に生息する鳥のキビタキとオオルリ」が描かれている。赤と緑それぞれ12個でゲームをするのが当たり前の僕らにとって、それぞれ6個でゲームができるように工夫してあるなど、デザインそのものがオリジナルだった。驚きは、玉(パック)。障害者施設のみなさんの手作りで、ひとつ一つ面取りして仕上げてあるのだという…。詳しく書くことはできないが、ルールもオリジナルだ。<br />
　大会は、30人の定員のところ40人の小学生が参加。初めてカロムに触ったという子どもたちも多くいた。それでもカロムはやっぱり盛り上がるのである。震災復興のために生まれたいわきの盤を使った第1回大会のその場に、僕は立ち会うことができた。ゼロ泊3日の無謀な旅が報われたと思った……。<br />
　「みんなともだちプロジェクト inいわき」の今後の計画を原田さんから打ち明けられた。<br />
　「C1カロムグランプリの開催です。C1の「C」はcaromのCです。どんな小さな単位でもいいから、全国各地で地区予選会を行い、予選を勝ち抜いた個人、チームが全国大会の切符を手にできます。そして、私たちには東北の復興が目標にありますから、全国大会をいわきで、東北で、開催したいのです」。　<br />
　いわきカロムロードの未来に期待したい。そして、応援したい。ゼロ泊3日のカロムな旅を重ねることになると思う。</p>

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      <title>井伊直孝公の歯骨を祀る御廟</title>
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      <published>2011-11-03T01:00:13Z</published>
      <updated>2011-10-24T01:20:30Z</updated>
      <author>
            <name>小太郎</name>
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      <category term="彦根市"
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        label="彦根市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><p>
<a href="/uploads/culture/a0332171c28826b2cbb3dfcc68d14207.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/a0332171c28826b2cbb3dfcc68d14207-260x174.jpg" width="260" height="173"  alt="" /></a></p>

<p>大信寺 直孝公の歯骨を祀る御廟
</p></div>

<p>　映画「一命」は彦根藩第2代井伊直孝公の時代の話である。徳川幕府からの信頼も篤く、15万石からスタートした彦根井伊氏は直孝公の代で30万石（城付米五万石）の譜代大名でも有数の大大名となった。映画「一命」の劇中に、鬼の角のような天衝をあしらった兜、甲冑具足まで赤一色に染め上げられた赤備えの鎧甲が映っている。「夜叉掃部（やしゃかもん）」と呼ばれた直孝公をイメージしたのだろう……。<br />
　彦根城の築城は、直孝公の時代に始まる。慶長9年（1604）から開始され、慶長12年（1607）頃には天守が完成。 その後、一旦中断していた工事は、元和元年（1615）大坂夏の陣の後、再開され、表御殿の造営、三重の濠と櫓、町割の整備、街道の整備が進み、城下町を含む彦根城の基本的な形は元和8年（1622）までには、ほぼ完成したとされている。<br />
　あまり知られていないが彦根市本町1丁目にある大信寺には直孝公の歯骨を祀る御廟がある。この辺りはかつて寺町といい、大信寺、来迎寺、願通寺の石垣が続いている。なかでも大信寺の石垣は、牛蒡積みで築城時のものだという。<br />
　大信寺は、慶長5年（1600）、井伊直政公が関ヶ原戦功により近江（滋賀県）佐和山城主となり、翌、慶長8年（1603）、現在地を寺領として大信寺を建立した。その後、元禄6年（1693）及び元禄14年（1701）と相次ぐ大火により堂宇は全焼したが、幸い仏像・位牌・諸帳簿・掛図等は難を免れ、宝永6年（1709）江戸時代中期、大信寺第6世空譽上人の時に井伊家より特別の御加護のもとに再建し、今日に至る。石垣は400年、建物は300年の歴史を刻む井伊家縁の寺である。<br />
　彦根藩第2代藩主直孝公は、信心深く、直政公の法事のたび毎に大信寺に参詣され、第3代藩主直澄公も直孝公の法事には欠かすことなく参詣されたという。<br />
　何故、直孝公の歯骨を祀る御廟があるのかは記録が無い。何故、直政公の歯骨ではなく、直孝公なのかも不思議である。<br />
　直孝公は、万治2年（1659）享年69歳で亡くなり、遺骨は縁の深い世田谷の豪徳寺に葬られた。大信寺は、井伊家の菩提寺ではなく帰依寺である。直孝公は直政公の意志を受け継ぎ、藩主として民の安寧を願い彦根の城下を築いた藩主である。大信寺第18世吉澄哲恵住職は、「直孝公が亡くなられた時、その魂を鎮め、歯をお祀りし城下町を治める精神的拠り所にしたのでしょう。歯骨というのは大切な、また崇高な祀り方のひとつではないでしょうか……」と言われる。墓石の裏側には『直孝鎮魂』とはっきりと刻まれているという。<br />
　直政公、直弼公ばかりが注目されがちだが、映画「一命」を観る機会に、招き猫の発祥にも関わる直孝公に注目だなと思っている。
</p>
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      <title>源義経と舎那院</title>
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      <published>2011-10-31T01:00:35Z</published>
      <updated>2011-12-14T02:50:37Z</updated>
      <author>
            <name>青緑</name>
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      <category term="長浜市"
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        label="長浜市" />
      <content type="html"><![CDATA[
<div class="imgbox right"><a href="/uploads/culture/5850d9b5a7fc5eb5b0c181b3779d7a2e.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/5850d9b5a7fc5eb5b0c181b3779d7a2e-230x167.jpg" width="230" height="166"  alt="" /></a></div>
<div class="imgbox right"><a href="/uploads/culture/26a240ebd84203ae5b65aa27afe3a317.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/26a240ebd84203ae5b65aa27afe3a317-180x240.jpg" width="180" height="240"  alt="" /></a></div>
<div class="imgbox right"><a href="/uploads/culture/1e883b7e33937d3e9bf5f78a9bc8de6c.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/1e883b7e33937d3e9bf5f78a9bc8de6c-180x240.jpg" width="180" height="240"  alt="" /></a></div>
<div class="imgbox right"><a href="/uploads/culture/62ff6fb904c26f3121f854fefcd2833e.jpg" class="lightbox"><img src="/uploads/culture/cache/62ff6fb904c26f3121f854fefcd2833e-230x169.jpg" width="230" height="169"  alt="" /></a></div>

<p>　——昔々。京の都では、怪僧弁慶が、夜な夜な通行人の刀を奪いこれを千本集めているという噂で、おそれられていた。千本目となるある夜のこと、牛若丸という少年が弁慶の前に現れた。弁慶は牛若丸の立派な太刀を奪おうと長刀を振り回すものの牛若丸は華麗にかわし、手に持った扇を投げ弁慶の額に命中させた。降参した弁慶は、牛若丸の家来となって仕えたという　　<br />
　昔話でおなじみの牛若丸と弁慶の出会いのエピソードである。この牛若丸は修行中の鞍馬寺を出奔し、源九郎義経の名で元服した。竜王の鏡神社は義経の元服地として知られる。<br />
　源九郎義経（源義経）は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟にあたる。頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった人である。しかし平氏の一族の娘を妻にしたことなどから頼朝と対立、追われる身となる。その逃避行の際に助けを求めたのが、長浜にある真言宗豊山派の古刹・勝軍山新放生寺舎那院である。<br />
　「当時の舎那院の執事・長善は、長浜はすでに危険だから木之本の浄信寺へ向かうように進言しました。寺同士、宗派は違うものの古くから交流があったのです」とご住職の吉田龍恵さん（81）が教えてくださった。<br />
　義経は浄信寺で一泊したという。その後、義経は奥州藤原氏の3代当主・藤原秀衡（ひでひら）を頼って平泉へ逃れる。しかし秀衡の子・泰衡（やすひら）の裏切りにより自害という運命をたどる。<br />
　義経の先祖にあたる源義家も、舎那院で戦勝祈願している。陸奥の豪族の阿部氏が朝廷に対して起こした反乱の征討に先駆けてのことで、義家は父・源頼義らと共に阿部氏を倒した。前九年の役と呼ばれる戦いである。<br />
　この勝利にちなみ後三条天皇から「勝軍山」の山号を授かると共に、勅願の神宮寺として長濱八幡宮が建立された。<br />
　「新放生寺という名は、八幡宮の境内にある放生池の周りにあったことに由来しています。延べ数300寺坊の存在が記録されており、それらの総称として新放生寺と呼ばれていたのです。しかし明治の廃仏毀釈で寺は次々廃され、舎那院のみが残りました」<br />
　舎那院の名は毘盧遮那仏（びるしゃなぶつ）に由来している。真言宗の根本仏・大日如来のことで、奈良の大仏さまも毘盧遮那仏である。そして牛若丸が鞍馬寺に預けられたときに名乗った稚児名は、遮那王……。不思議な符号に思いは巡るのである。</p>

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</p>
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