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古楽の記事一覧

  • 2017年8月15日

    湖東・湖北 ふることふみ35
    治部蛍計画 まち・文化

     春から初夏へと移り、夜の外出が容易になった季節に注目を集める昆虫が蛍である。日本人には古くから親しまれていて最古の記録では『日本書紀』に記され、清少納言の『枕草子』には「夏は夜。つきのころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる」とも紹介されていて夏の名物が月夜と闇夜の蛍であることは平安時代には既に知... 続きを読む

  • 2017年6月27日

    湖東・湖北 ふることふみ34
    『琵琶湖周航の歌』100年 まち・文化

    5番の歌碑・彦根港  平成29年6月、『琵琶湖周航の歌』ができて100年を迎える。様々な歴史を扱っているこのコーナーでは100年という時間はほんの一瞬のように感じてしまうが、一つの曲が残り歌われ続けるには途方もない時間となる。ましてや『琵琶湖周航の歌』は後世に残すために作られた訳ではなく一瞬で歴史の陰に消えて... 続きを読む

  • 2017年6月9日

    湖東・湖北 ふることふみ33
    井伊家千年の歴史(19) まち・文化

    小野但馬終焉の地・手前の巨石が但馬の供養石と言われている  戦国時代の井伊家を語るうえで必ず登場する一族が小野家である。しかも井伊家を窮地に落とす獅子身中の虫として扱われている。  伝承では小野家は小野篁の息子俊生が遠江に住んだことが始まりとされているが、最近では「英比」という家であったとされていて井伊一族だ... 続きを読む

  • 2017年5月2日

    湖東・湖北 ふることふみ32
    井伊家千年の歴史(18) まち・文化

     静岡県御前崎市の新野地区。JR菊川駅からバスに揺られること30分で茶畑が広がる静かな町に到着する。ここが井伊直虎の母祐椿尼とその兄である新野左馬助の育った場所である。  新野家は『吾妻鏡』には既に記録された遠江武士ではあるが、左馬助は今川氏の血縁であることからどこかの段階で新野家が地元の武士から今川氏一族に替っ... 続きを読む

  • 2017年4月6日

    湖東・湖北ふることふみ31
    井伊家千年の歴史(17) まち・文化

    井伊直盛の陣跡(桶狭間小学校)  井伊家の歴史は今川氏との関係が大きく影響することが見えてくる。そんな今川氏の没落するきっかけとなるのが桶狭間の戦いであり、この合戦は井伊家にとっても大きな分岐点となった。今稿では、桶狭間の戦いで井伊直盛がどの様に動いたのかを見て行くことにする。  永禄3年(1560)5月の時... 続きを読む

  • 2017年3月3日

    湖東・湖北 ふることふみ30
    井伊家千年の歴史(16) まち・文化

    妙雲寺(浜松市北区引佐町) 昨年妙雲寺で発見された直虎の位牌  許嫁が行方不明だったあしかけ11年という時間はあまりにも長かった。少年だった亀之丞は20歳の青年となり直虎の前に現れた、井伊直盛は娘が還俗して亀之丞と結婚し夫婦で次代の井伊家を継いでくれるように願ったが、直虎は拒否した。その理由は分かっ... 続きを読む

  • 2017年2月17日

    湖東・湖北ふることふみ29
    井伊家千年の歴史(15) まち・文化

    井伊直親の墓(中央)と直虎の墓(右から2番目)  前稿まで、井伊家が誕生してから井伊直政が徳川家康に仕えるまでの565年の歴史を紹介した。今稿からは井伊直虎とその周辺の人物に焦点を当てて紹介したい、その過程で前稿までと重複する話が多用されることをお断りする。  まずは井伊直虎。  井伊谷龍潭寺が作成した年表... 続きを読む

  • 2016年12月23日

    湖東・湖北ふることふみ 27
    井伊家千年の歴史(13) まち・文化

    井伊谷龍潭寺に残る江戸期の直盛の墓  井伊直満と直義兄弟にどのような罪があったのかは分からない、ましてやそれが九歳の亀之丞まで殺さなければならないようなものであったのか? 定説として重臣の小野和泉守に冤罪を被せられたことになっているが、そんな罪を一族が重ねながらなぜ井伊家にお咎めがないのかも不思議だが、井伊家... 続きを読む

  • 2016年10月3日

    湖東・湖北ふることふみ25
    井伊家千年の歴史(11) まち・文化

    菊川市・塩買坂古戦場  歴史の流れが変わるきっかけは、人の手によるものと大きな天災によるものの二つに分けることができる。戦国時代の井伊家は両方のきっけによって歴史の表舞台に立たされることになった。  人の手によるきっかけは将軍家の後継者争いに端を発した応仁の乱。少し前から遠江守護は今川氏から斯波氏に代わってい... 続きを読む

  • 2016年9月8日

    湖東・湖北ふることふみ24
    井伊家千年の歴史 10 まち・文化

    新田神社の井伊弾正左衛門肖像画  井伊谷の井伊家は今川了俊に九州まで遠征させられ、それまでの意に反して懐良親王と戦うことになり多くの犠牲者を出す結果となった。  その少し前、別の井伊一族の名前が『太平記』に記されている。新田義貞の次男義興が関東で戦っていたとき義興軍の猛将として登場する井弾正である。新田義興は... 続きを読む

  • 2016年8月10日

    湖東・湖北ふることふみ23
    井伊家千年の歴史 9 まち・文化

     南朝に属し宗良親王を助けた井伊道政とは何者なのか? 彦根藩井伊家の系図でも幕末になって急に登場する人物で明治政府に提出した系図に直系の人物として公にしている。江戸期になって書かれた南朝資料に名前が登場することがあったために南朝を助けた勤皇家の井伊家という象徴として追加されたと考えられているのだ。私見ではあるが「... 続きを読む

  • 2016年7月13日

    湖東・湖北ふることふみ22
    井伊家千年の歴史 8 まち・文化

    井伊谷龍潭寺の宗良親王の位牌  南北朝時代に数々起った戦いのうちで、特に重要となる一つが青野原の戦いである。延元三年(1338)1月、奥州で戦っていた北畠顕家は畿内での南朝方の不利を助けるために軍勢を都へ向けて猛進させ、関東や東海道で味方が集まり軍は拡大した。北朝に属していた今川範国は、顕家の軍勢を後ろから追... 続きを読む

  • 2016年6月13日

    湖東・湖北ふることふみ21
    井伊家千年の歴史(7) まち・文化

    三岳城跡  元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡。私たちは一つの武家政権が終焉を迎える時、そこに仕えた人々や最高権力者の一族が一緒に歴史から消えるようにイメージしている。しかし幕府終焉において権力者一門に大きな悲劇が起こったのは北条氏のみであり、室町幕府や江戸幕府でも終焉時に将軍の命は長らえている。この点において... 続きを読む

  • 2016年4月18日

    湖東・湖北ふることふみ 20
    井伊家千年の歴史(6) まち・文化

    鏡の宿。本陣の隣、義経宿泊地  鎌倉時代前期『吾妻鏡』の記載で近江に井伊直綱という人物が佐々木庄に居たこと、承久の乱(もしくは三日平氏の乱)で幕府に逆らった貫名重忠という井伊家に連なる武将が居てその息子が日蓮上人であることなど多面的な井伊家の姿が歴史の断片に見えるようになってきた。  日吉社宮仕法師刃傷事件か... 続きを読む

  • 2016年3月23日

    湖東・湖北ふることふみ19
    井伊家千年の歴史(5) まち・文化

    鎌倉・日蓮上人辻説法跡  鎌倉時代になると井伊家は一族の中から他の姓を称する人物も登場する。そのような人々が血の繋がりによる団結と場合によっては権力を争うこともありながら遠江国に井伊家の血縁が広がって行った。既に井伊家と血縁関係があるかもしれない遠江武士として横地氏と勝俣(勝間田)氏を記しているが、他の家につ... 続きを読む

  • 2016年2月22日

    湖東・湖北ふることふみ18
    井伊家千年の歴史(4) まち・文化

    六角氏居館・小脇館跡  保元の乱の時に少しだけ名前が登場する井八郎が、源義朝に従いその後も井伊家が源氏に味方していただろうとの可能性を前稿で記した。今稿からは鎌倉時代の井伊家を紹介して行こうと思う。  鎌倉幕府は公式記録として『吾妻鏡』を記し、当時の情勢を現在に伝えている。『吾妻鏡』の中に井伊家に関わるであろ... 続きを読む

  • 2016年1月20日

    井伊家千年の歴史(3) まち・文化
    湖東湖北ふることふみ17

    京都の三条東殿跡(現・新風館)  井伊家の系図では、初代井伊共保の後に2代共家、3代共直と「共」の字を継いだ当主が続くが、4代惟直、5代道直、6代盛直と共直を境に「直」の字が引き継がれるようになってゆくことが見えてくる。  さて、彦根藩が編纂した『井伊家傳』では初代共保が亡くなった寛治7年(1093)から急に井... 続きを読む