湖東・湖北 ふることふみ 75
明智光秀に仕えた彦根藩士(中編)
徳川家康の祖父・松平清康は名将だったと伝わっている。混乱が絶えなかった西三河を統一し、今川氏輝(義元の兄)や織田信秀(信長の父)と対等に渡り合える人物だった。しかし二十五歳の若さで家臣の阿部正豊に暗殺される(守山崩れ)。余談ではあるが、清康を刺した刀は村正の一派である千子正重であり、この後も家康の周辺に関わる悲劇には村正が関わるため、妖刀村正の伝説が面白おかしく語られる。楠木正成の子孫が打つ千子正重が同じ南朝方の武将である新田義貞の子孫を称する徳川氏に祟るのは物語としても矛盾が生じると考えている。
さて清康の子・仙千代はまだ十歳であり清康の叔父・松平信定に保護される。しかし織田信秀と好を通じて清康に反発していた信定を信用していなかった仙千代の傅役である阿部定吉(正豊の父)は、仙千代を連れて信定の元から脱出し、清康の妹婿吉良持広を頼った。吉良氏は伊勢国神戸(鈴鹿市)にも所領を持っていたため、仙千代と定吉ら主従を神戸の龍光寺に匿ったのだった。
龍光寺は、近くの神戸城を居城としている神戸氏が、この時期より一世紀ほど前に称光天皇からの勅命で建立した格式高い寺院で、ここに匿われるということは、ある程度の安全だけではなくその人物の身許も保証されたのではないかと考えられる。そうならば神戸氏にとって仙千代は客分として遇する対象であったのではないだろうか。
仙千代と神戸氏についてどのような交流があったのかを詳しく知ることはできないが、この時期に神戸氏に仕えていた木俣守時が仙千代に仕えるようになる。楠城主川俣氏の一族でありながら神戸氏に仕え、その上で身許が保証されているとはいえ国を追われた子どもを主とする決意をした守時の行動には疑問を感じざるを得ない。ただ仙千代を不憫に思っていた吉良持広は、吉良氏の同族である今川氏輝に声をかけて仙千代の後ろ盾とし、松平信定との戦いの準備を始めていた。仙千代は伊勢を出る前に元服し松平広忠と名乗る。大大名今川氏の支援を得て国入りする広忠に従って行けば、三河で木俣氏の家名を残せる可能性が低くないと守時が考えたのかもしれない。また守時がそう思えるほどに広忠の人柄に特筆すべきものがあった可能性はある、低く評価しても広忠は息子徳川家康よりも律儀者であったことは確実なのだ。
さて、広忠は十一歳で元服し守時らを伴い伊勢国を出て駿河国に向かったが道中で氏輝の急死の報を聞く、やがて花倉の乱を経て今川義元が当主となると義元の庇護を受けて三河へと帰国した。以降、広忠はどんな無理難題を課せられようとも義元を裏切らず忠誠をつくし続ける。そして守時も広忠と共に岡崎城に入り城下に居を構え、広忠が暗殺され幼い家康を他の三河武士と共に支える。永録七年(一五六四)三河統一直前の家康に守時の子・守勝が九歳で出仕したのだ。
【古楽】