湖東・湖北 ふることふみ 84
『彦根城総構え400年』(四)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2021年9月8日更新

鳥居本宿南端・彦根道への石柱

 《道》は不思議である。「すべての道はローマに通ず」との有名な言葉があるように日本が記録に残る歴史を有する前から人類史の中で道は重視されていた。では道が人類の英知なのかと言えば、それは否と答えざるを得ない。動物が動く場所には目に見える形で獣道ができる。また植物が繁殖するルートも道である。極端な言い方をすれば単細胞生物が移動する行程も道と解釈できる。
 単細胞レベルでも確認できる《道》だが、一方で人類の経済活動にとって重要かつ不可欠な存在でもあるのだ。
 有史以来、人々の生活にまず道ができた。小さな村単位での生活では村の中に通る道で充分であり、生活圏が外へ広がるに比例して道も延びていく。そして近くの村の道と結ばれることとなる。今から四半世紀ほど前には史家から「江戸幕府はオランダや朝鮮などの使者に国土を広く感じさせるために街道を曲げて造らせた」との説明をよく聞いたが、実は先に個々の村々の道がありその道を無理やり繋げたことで道が無理に曲がる原因となった。地方分権であったため幕府といえども道を統一させるのは不可能だったのである。それでも五街道の制定などの国家事業を遂行させた功績は大きい。
 さて、長々と《道》の話を書いたが、戦国時代後期辺りから大名たちも道の重要性に気付くようになる。軍事道路を整備した武田信玄や楽市楽座により道を使い易くした六角定頼・今川氏真・織田信長などである。特に信長は東山道(中山道)から離れた安土に城を築くことで脇街道である下街道(現在は主に県道二号線)を現代でも使用される主要道路へと発展させた。
 城は必ずしも主要な街道沿いに建てなくても良いと信長が示した。この城下町造りは彦根城築城において発展を遂げる。安土では既存の下街道を利用したが、彦根城下町では新たな道を作っていく。第一期工事で彦根山周辺の村々を強制的に移転させ善利川の流れすら変えて生まれた広大な平地。中山道から離れたこの平地に町を造るには中山道から城下を通る道を考えなければならない。幸いにも信長の下街道が摺針峠から琵琶湖方面に結ばれているためこれを利用することとなる。鳥居本宿南端から佐和山の切通しを越えて彦根城下町に入る「彦根道」である。彦根道は下街道へ繋がり野洲宿から中山道に合流する道と、芹川の浅瀬を渡って高宮宿に入る道が考えられているがどちらにしても中山道を旅する人々が譜代大名筆頭井伊家の城下町に寄るためには中山道から外れることになる。現在の彦根市域で考えても彦根城下・高宮・鳥居本はそれぞれに経済効果があったのだ。その上で街道に大型兵器などを通させない軍事的観点から幕府は悪路を推奨した。このため旅人の殆どが徒歩である。城下町を中山道から離すだけで、彦根藩領を抜けるために数日の宿泊を行う旅行客が見込めたのである。私は彦根城完成後の町造りは、まず彦根道から始まったと考えている。

古楽

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