湖東・湖北 ふることふみ 85
『彦根城総構え400年』(六)
今更ではあるが「総構え」の定義は難しい。城を中心とした外郭と解釈されている。単純に考えると防衛や生活・経済が城と総合的に結び付いていて堀や土塁などで囲まれた区域である。
中国などの諸外国の城は城下町を含み高い城壁に囲まれている光景である。これに対し日本の城は城下町の外れにしっかりとした区切りが感じられない。理由として現在は城の定義に城下町まで含まれていないために研究が進んでいないこと、明治維新から現在までの町作りで総構えの外郭である堀や土塁などが早々に壊されたことなどが挙げられる。
そもそも、九州北部を除く日本の戦では異民族の襲来が無かったため玉砕を覚悟しなければならないような凄惨な守城戦が行われなかった立地も総構えに高い城壁を有しない結果となった。それは江戸時代においても城下町が総構えで囲まれた有限的な区域で終わるのではなく城下の外でも安全に町が拡大できたためにますます総構えを感じることが難しくなっている。
彦根城においての総構えはどこであるのかと考えるならば、史料として『御城下惣絵図』の範囲であると考える。北は松原内湖・南は芹川・西は琵琶湖・そして東はJR琵琶湖線の少し西側までの範囲となる。
『御城下惣絵図』は彦根城を紹介する本などに掲載されていて彦根城博物館のHPでも閲覧できるため興味がある方は調べていただきたい。そのときに注目してほしい部分は城側の外堀沿いである。ここに緑色が塗られた部分があり、堀と一緒に城下町を囲んでいる。この緑色は土塁があった場所を示し、城下町の総構えには土塁と外堀が一つの区切りであったと知ることができる。彦根城下には幸いにして土塁が残っている場所がある。以前に銭湯だった山の湯が庭園築山として使っていた場所で平成27年(2015)に本格的な調査が行われている。これによると土塁の底辺18メートル、上辺4メートル、高さ城内側5.5メートル、城外側6メートルだった。そして土塁上部は竹藪になっていたことも記録に残っている。単純に考えれば外堀の内側は十メート以上の壁に遮られていたこととなる。外堀から遠く離れないと山の上に建つ天守すら見ることができなかったであろうと想像できる。彦根城天守を目印にしながら攻め寄せる敵は外堀近くで城を意識した瞬間から目標となる天守を見失うこととなる。実はこれは外堀を突破したのちに中堀を攻めるとき、そして中堀を突破したのちも攻め手に天守が見えない不安を与える作事が行われている。
私は隠れた彦根城ビュースポットとして城西小学校西側の本町三丁目の信号辺りを案内することがあるがこの場所も江戸時代には土塁と竹藪で天守が見える場所ではなかったのである。私たちが当たり前のように彦根市街地から見る彦根城は、江戸時代には当たり前の光景ではなかったのだ。
【古楽】