湖東・湖北 ふることふみ 77
井伊直政公生誕460年
永禄四年(1561)2月19日、彦根藩祖井伊直政が井伊谷で産声を上げた。つまり2021年は直政公生誕460年となる。
直政が誕生した頃の井伊家については大河ドラマ『おんな城主直虎』で語られ、私も『井伊家千年紀』に記しているため既にご存じの事柄ばかりになるかもしれないが、この機会に改めて井伊家を見直してみたい。
平安時代から井伊谷(静岡県浜松市)を中心に拠点を広げていた井伊家は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子である宗良親王を匿い南朝方として戦う。このときに井伊家と激しく戦った北朝の武将が今川範国で、以降井伊家と今川氏は何代も続く対立関係にあったが戦国時代に入り今川氏の勢力拡大によりついに井伊家も今川氏の軍門に降ることとなった。しかし駿府を居城としていた今川氏にとって、三河との国境に近い井伊谷を拠点にしていた井伊家は不気味な存在でもあり常に警戒されていたため、井伊家でも一族の娘を今川義元の側室として人質に出し、今川氏の血縁である新野氏から妻を迎えその兄を井伊家重臣にするなどの対策も行っていた。
だが直政の祖父直満は北条氏と結んで今川氏を東西から挟み撃ちにする企てを立て義元に処罰された。直満の子亀之丞は足掛け11年(実質9年)の逃亡生活を経験し元服して「直親」と名乗り井伊谷に戻ってきた。
直親の帰郷に際し、一族である奥山朝利の娘を妻として迎えている。これは直親にとって有力な後ろ盾になる存在であった。直満が罰せられる前の亀之丞には直盛の娘(次郎法師直虎)との婚約があったとされているが、謀反人の息子となった直親は強力な味方をアピールして身の安全を確保しなければならず、次郎法師の婚礼は不可能であったと考えざるを得ないのである。
井伊谷は直盛による落ち着いた領国運営が長期的に続き、ゆっくりと直親へと世代交代する予定だった。しかし直親が戻ってから5年、桶狭間の戦いにより今川義元・井伊直盛が共に討死。今川氏を継いだ氏真は直親を謀反人の子として猜疑の目で見るようになっていく。
桶狭間の戦いのときには直親の妻が懐妊していたが、これを直盛が知っていたかどうかはわからない。けれども直盛の死と因縁がついて期待された子になった可能性は高い。しかし直盛討死の半年後には直親の後ろ盾だった奥山朝利が殺害されてしまう。期待されながらも常に危機が近くに迫っていた直親の子として井伊直政が誕生したのだった。翌年十二月には直親も暗殺されたため、直政は父と1年10か月しか人生を共にできず、その後も幼くして多くの苦難を経験することとなる。
直親が頼りにした奥山家は、直親を守ることはできなかったが、朝利の孫である六左衛門は直政の家臣として多くの戦に参戦し、直政没後は彦根城築城二期工事の総奉行として彦根城下町も基礎を完成させている。
【古楽】