湖東・湖北 ふることふみ 79
『渋沢栄一の義姪になった彦根人』
渋沢栄一の義兄である尾高惇忠の意に沿って富岡製糸場の女工たちを教育した人物が遠城繁子であることを前稿で紹介したが、もう少し深く掘り下げて考えると、惇忠が女工募集を行って3年後に突然やって来た繁子の行動も、繁子や夫・謙道について惇忠が知っていることも、都合が良すぎる感が否めない。
惇忠と繁子の間を結ぶ糸は何であったのか? その答えは平成30年に彦根城博物館で行われた企画展『彦根製糸場―近代化の先駆け―』の図録に「女工募集にあたっていた韮塚直次郎の妻峰が彦根出身であったという縁があり、二人は彦根で女工を募集し」と紹介されている。
江戸後期の尾高家は多くの事業を行う豪農として使用人を使っていた。『青天を衝け』での登場は見込めないかもしれないが、惇忠の7歳年上の使用人が韮塚直次郎で、尾高家の離れで生まれた直次郎は幼い惇忠や栄一とも交流があった。やがて才能が認められ独立した直次郎は、尾高家の協力の下で豪農として大きな財産を築いていく。ちょうど井伊直弼が大老に就任したころ、深谷宿で飯盛り女として働いていた美寧(みね・峰)と直次郎が出会った。美寧の事情を聴くと、彦根藩士羽守清十郎の娘だったが婚約から逃げ出して苦労の末に深谷宿まで来たとのことだった。直次郎は美寧を気に入り、尾高家から独立したときに迎えていた妻と子に全財産を与えて離縁、惇忠に相談して美寧を尾高家の養女にしてから妻として迎えたのだった。形式的に美寧は渋沢栄一の義姪ということになる。
美寧の父とされている羽守清十郎という名は深谷市で伝わっているため、彦根で該当する人物を探してみた。私がこの話を訊いたのは『青天を衝け』の制作発表が行われてすぐのことでありあまり情報はなかったが、彦根藩において「羽守」ではなく同じ「はもり」と読むであろう「羽森」という苗字を善利組四丁目で見つけた。ここに記された羽森彦次が清十郎なのか、別に該当の人物が居るのかは現段階でまだ調査はできていないが彦根藩に関わる女性が尾高家の養女として韮塚家に嫁いだという縁は間違いないのではないだろうか。だからこそ惇忠は遠城謙道のことを知っていて、繁子が訪問してきたときに大いに喜んだのだと推測できるのだ。
明治維新後、直次郎は富岡製糸場の礎石運搬や煉瓦製造などの資材調達を任されるが、ほとんどの日本人が目にしたこともないような西洋建物の建築であり作り方も分らない煉瓦を焼きセメントの代用品を探すなどの苦労があり、その傍らには常に美寧の協力があったとされている。直次郎が関わった富岡製糸場に彦根からの女工を多く紹介したことは、美寧の内助の功の一つだったのかもしれない。
美寧の墓は、富岡製糸場の近くに直次郎が生前に建立した物と深谷の二か所で確認できるが、どちらも直次郎と美寧の名が並んで刻まれている。
【古楽】