湖東・湖北 ふることふみ 74
明智光秀に仕えた彦根藩士(前編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2020年11月13日更新

楠城址(くすじょうし:三重県四日市市)

 大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていると、今までのドラマではあまり描かれなかった人物や出来事が濃く描かれる傾向が強いため、個人的に登場を期待している人物がいる。それは木俣守勝である。
 守勝は『おんな城主直虎』の最終回で、徳川家康から井伊直政に預けられた武将の一人として登場する人物だが、その前に明智光秀に仕えていた時期があるのだ。
 まずは木俣氏のことから考察したい。先祖は楠木正成だと言われている。楠木氏は江戸時代初期に徳川光圀(水戸黄門)が編集を始めた『大日本史』において南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に忠誠を尽した武士の鑑として称され、その考え方を踏襲した明治政府の影響で忠臣としてのイメージが現代まで残っている。しかし、室町時代は足利尊氏が立てた北朝に逆らった逆臣との評価が一般的であり子孫たちは楠木姓を捨て別姓を名乗るようになる。
 楠木正成が討死したあと、息子たちが南朝を盛りたてていたが、その中の一人楠木正儀が北朝に帰順し五十六年続いた南北朝の争乱を終わらせることになる。この正儀の子孫が木俣氏であるとされている。ここから複数の説が存在するが大きく二つの説を紹介したい。
 一つは楠木正秀という人物が河内国大饗村(おおあえ・おあえ:大坂狭山市)に住み「大饗」姓を称した一族から分かれたというもので、正秀の子が守清を名乗り代々「守」の字を繋いでいるとしている。大饗氏を継いだ人物が正盛を名乗っているため「盛」と同音異字の「守」を使ったのかもしれない。余談だが、正盛の子孫である大饗正虎は足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉の右筆を務めるくらいの書家であったため、朝廷に願い出て楠木正成の名誉を回復させ楠木姓に戻し楠木正虎(楠長韻)として名を残している。
 もう一つの説は、北朝に降った正儀の後で南朝の総大将となった楠木正勝という人物を祖とするもので、正勝は南北朝合一後も南朝の武将として戦い続け討死、息子の正顕(正盛)が伊勢国司北畠氏に仕えるようになり、正顕の子・正威が北畠氏の命で楠城主(四日市市)となるが、楠城は正威の弟・正重(刀匠村正の弟子、千子正重派の祖)が継ぎ、正威の息子・正資の子孫が「木俣」氏を名乗ったとされている。楠城主の家系は一時期楠木姓を捨てて「川俣」姓を称していたが、正虎に続いて楠木姓に戻している。木俣というのは「楠木」と「川俣」から一字ずつ採ったという話もある。
 正勝と正秀は兄弟と言われているが、ややこしい話として、正勝は実は討死せず怪我を負って逃れ、正秀を名乗ったという話まで残っている。その証拠ともいえるかのように正勝と正秀の子がどちらも正盛を名乗っているのである。そうすると今稿で書いたすべてが意味のないことになる。ただし木俣氏が戦国時代に伊勢に居たことは確実と思われる。

古楽

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