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古楽の記事一覧

  • 2016年12月23日

    湖東・湖北ふることふみ 27
    井伊家千年の歴史(13) まち・文化

    井伊谷龍潭寺に残る江戸期の直盛の墓  井伊直満と直義兄弟にどのような罪があったのかは分からない、ましてやそれが九歳の亀之丞まで殺さなければならないようなものであったのか? 定説として重臣の小野和泉守に冤罪を被せられたことになっているが、そんな罪を一族が重ねながらなぜ井伊家にお咎めがないのかも不思議だが、井伊家... 続きを読む

  • 2016年10月3日

    湖東・湖北ふることふみ25
    井伊家千年の歴史(11) まち・文化

    菊川市・塩買坂古戦場  歴史の流れが変わるきっかけは、人の手によるものと大きな天災によるものの二つに分けることができる。戦国時代の井伊家は両方のきっけによって歴史の表舞台に立たされることになった。  人の手によるきっかけは将軍家の後継者争いに端を発した応仁の乱。少し前から遠江守護は今川氏から斯波氏に代わってい... 続きを読む

  • 2016年9月8日

    湖東・湖北ふることふみ24
    井伊家千年の歴史 10 まち・文化

    新田神社の井伊弾正左衛門肖像画  井伊谷の井伊家は今川了俊に九州まで遠征させられ、それまでの意に反して懐良親王と戦うことになり多くの犠牲者を出す結果となった。  その少し前、別の井伊一族の名前が『太平記』に記されている。新田義貞の次男義興が関東で戦っていたとき義興軍の猛将として登場する井弾正である。新田義興は... 続きを読む

  • 2016年8月10日

    湖東・湖北ふることふみ23
    井伊家千年の歴史 9 まち・文化

     南朝に属し宗良親王を助けた井伊道政とは何者なのか? 彦根藩井伊家の系図でも幕末になって急に登場する人物で明治政府に提出した系図に直系の人物として公にしている。江戸期になって書かれた南朝資料に名前が登場することがあったために南朝を助けた勤皇家の井伊家という象徴として追加されたと考えられているのだ。私見ではあるが「... 続きを読む

  • 2016年7月13日

    湖東・湖北ふることふみ22
    井伊家千年の歴史 8 まち・文化

    井伊谷龍潭寺の宗良親王の位牌  南北朝時代に数々起った戦いのうちで、特に重要となる一つが青野原の戦いである。延元三年(1338)1月、奥州で戦っていた北畠顕家は畿内での南朝方の不利を助けるために軍勢を都へ向けて猛進させ、関東や東海道で味方が集まり軍は拡大した。北朝に属していた今川範国は、顕家の軍勢を後ろから追... 続きを読む

  • 2016年6月13日

    湖東・湖北ふることふみ21
    井伊家千年の歴史(7) まち・文化

    三岳城跡  元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡。私たちは一つの武家政権が終焉を迎える時、そこに仕えた人々や最高権力者の一族が一緒に歴史から消えるようにイメージしている。しかし幕府終焉において権力者一門に大きな悲劇が起こったのは北条氏のみであり、室町幕府や江戸幕府でも終焉時に将軍の命は長らえている。この点において... 続きを読む

  • 2016年4月18日

    湖東・湖北ふることふみ 20
    井伊家千年の歴史(6) まち・文化

    鏡の宿。本陣の隣、義経宿泊地  鎌倉時代前期『吾妻鏡』の記載で近江に井伊直綱という人物が佐々木庄に居たこと、承久の乱(もしくは三日平氏の乱)で幕府に逆らった貫名重忠という井伊家に連なる武将が居てその息子が日蓮上人であることなど多面的な井伊家の姿が歴史の断片に見えるようになってきた。  日吉社宮仕法師刃傷事件か... 続きを読む

  • 2016年3月23日

    湖東・湖北ふることふみ19
    井伊家千年の歴史(5) まち・文化

    鎌倉・日蓮上人辻説法跡  鎌倉時代になると井伊家は一族の中から他の姓を称する人物も登場する。そのような人々が血の繋がりによる団結と場合によっては権力を争うこともありながら遠江国に井伊家の血縁が広がって行った。既に井伊家と血縁関係があるかもしれない遠江武士として横地氏と勝俣(勝間田)氏を記しているが、他の家につ... 続きを読む

  • 2016年2月22日

    湖東・湖北ふることふみ18
    井伊家千年の歴史(4) まち・文化

    六角氏居館・小脇館跡  保元の乱の時に少しだけ名前が登場する井八郎が、源義朝に従いその後も井伊家が源氏に味方していただろうとの可能性を前稿で記した。今稿からは鎌倉時代の井伊家を紹介して行こうと思う。  鎌倉幕府は公式記録として『吾妻鏡』を記し、当時の情勢を現在に伝えている。『吾妻鏡』の中に井伊家に関わるであろ... 続きを読む

  • 2016年1月20日

    井伊家千年の歴史(3) まち・文化
    湖東湖北ふることふみ17

    京都の三条東殿跡(現・新風館)  井伊家の系図では、初代井伊共保の後に2代共家、3代共直と「共」の字を継いだ当主が続くが、4代惟直、5代道直、6代盛直と共直を境に「直」の字が引き継がれるようになってゆくことが見えてくる。  さて、彦根藩が編纂した『井伊家傳』では初代共保が亡くなった寛治7年(1093)から急に井... 続きを読む

  • 2015年12月21日

    湖東・湖北ふることふみ16
    井伊家千年の歴史(2) まち・文化

    藤原共資の居城・志津城跡  現在は混合して使われているが、「苗字」と「氏」ではその用途が違っている。わかり易い例では徳川家康の苗字は「徳川」であり、氏は「源」となるので徳川家康が氏名を名乗る時は「源家康」となる。同じ例で豊臣秀吉は苗字が「羽柴」で氏は「豊臣」なのだ。氏が同じ一族を示すものであり、そこから派生し... 続きを読む

  • 2015年11月17日

    湖東湖北ふることふみ15
    井伊家千年の歴史(1) まち・文化

    井伊共保出生の井  2007年の大河ドラマは井伊直虎が主人公となる『おんな城主 直虎』に決定した。大河ドラマの長い歴史の中で、徳川家や源氏平家など特定の時代の最高権力者以外で同氏から二人の主人公を輩出したのは井伊家が初めてとなる。一部のゲームユーザーからはよく知られた人物でもある直虎だが、一般的な知名度は皆無... 続きを読む

  • 2015年10月21日

    湖東・湖北ふることふみ14
    『琵琶湖周航の歌』の原曲 まち・文化

    ひつじぐさ(琵琶湖周航の歌資料館前)  2017年、『琵琶湖周航の歌』が誕生して百年となる。森繁久彌さんや加藤登紀子さんがこの曲を世に知らしめた頃、『琵琶湖周航の歌』は小口太郎の作詞作曲と思われていた。しかし後の調査で作詞は小口太郎に間違いないが曲は吉田千秋という青年が発表した『ひつじぐさ』が原曲だったことが... 続きを読む

  • 2015年9月21日

    湖東・湖北ふることふみ13
    江戸後期のスイーツ まち・文化

    筆者が再現した冷瓏豆腐  『井伊直弼公生誕200年祭』が行われている。その中の企画として『ひこね菓子』という井伊直弼や茶の湯に合った菓子を創作するイベントの選考会が九月二日に行われた。今稿では井伊直弼が誕生した頃に食べられていたと考えられる一つのスイーツを紹介したい。  『豆腐百珍』という本がある。天明2年(1... 続きを読む

  • 2015年8月18日

    湖東・湖北ふることふみ12
    地名として残った川の名前 まち・文化

    県道2号線新能登川橋  今から25年ほど前のことだろうか?  「歴史に関係あるかどうかわからないけど」との前置きをされてから「能登川って川はどこにあるのですか?」と質問された。その瞬間まで能登川という地名は当たり前のように身近にあり、当然のように河川として存在するのだろうと思い込んでいた。しかし実際に調べてみ... 続きを読む

  • 2015年7月20日

    湖東・湖北ふることふみ11
    地震と豊臣政権 まち・文化

     豊臣秀吉が最初に築城した伏見城である指月城の遺構が平成27年6月に発見され大きな話題となった。指月城は慶長伏見地震で倒壊し、その姿を後世に残さなかったために幻の城ともされていたが今回の発見で歴史の一ページが真実であったことを証明したのだ。  指月城は地震で「天守上の二重ゆりおとし」と記録されるように天守が落ちて... 続きを読む

  • 2015年6月19日

    湖東・湖北ふることふみ10
    織田信長に愛された側室が住んだ館 まち・文化

     戦国史のみではなく、日本史の流れを大きく変えた事件の一つに本能寺の変が挙げられる。織田信長の死は同じ時代を生きた人々の運命にさまざまな影響を与えた。そんな信長が晩年に最も信頼し、本能寺の変の後は信長の妻妾たちの中心となって活動した人物が「お鍋の方」だ。  近江が六角氏と京極氏によって支配されていた頃、永源寺辺り... 続きを読む