湖東・湖北ふることふみ25
井伊家千年の歴史(11)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年10月3日更新

菊川市・塩買坂古戦場

 歴史の流れが変わるきっかけは、人の手によるものと大きな天災によるものの二つに分けることができる。戦国時代の井伊家は両方のきっけによって歴史の表舞台に立たされることになった。
 人の手によるきっかけは将軍家の後継者争いに端を発した応仁の乱。少し前から遠江守護は今川氏から斯波氏に代わっていて井伊家は斯波氏に従ったが、今川義忠は遠江支配を目指し何度も遠江に侵攻した。これによって『保元物語』に名前が挙がっていた勝間田氏や横地氏の居城も落城する。文明8年(1476)四月六日、横地城を落とした義忠はその夜に横地氏残党に襲われて塩買坂で討死、今川家に内紛が起こり遠江侵攻どころではなくなる。だが義忠の正室の兄である伊勢宗瑞(北条早雲)台頭の原因となり宗瑞が後見した今川氏親(義忠の息子)の遠江侵攻は激しさを増したのだった。
 天災によるきっかけは前稿で記した明応7年(1498)の大地震と大津波だ。これにより荒井崎が崩壊した浜名湖は太平洋と繋がってしまい東海道は舟を使わなければ進めなくなってしまった。自然と浜名湖を北から回り込む道が主流となる。それは井伊谷近くを通ることを意味していたのだ。人が動くところは物が動き経済が生まれる、経済が生まれれば巨大な勢力が狙って来るようになる。このタイミングで有能な策士である伊勢宗瑞が率いる今川氏親が遠江侵攻を行っているのだから、井伊家は積極的に戦いに参加しなければならなくなっていた。この頃の当主井伊直氏は斯波義寛の下で積極的に今川軍と戦い、三方ヶ原では大きな野戦も起こっている。
 永正5年(1508)井伊直氏没。跡を継いだ直平は直氏が亡くなる以前から文叔瑞郁を自浄院(後の龍潭寺)に招くなどの政治的活動が見られるため、直氏の死は大きな問題ではなかった可能性もあり、直平も斯波義達に従って今川軍と戦う立場をとっていた。しかし今川氏親は確実に遠江での地盤を固めてしまい、永正10年に朝比奈泰以が率いる今川軍によって三岳城落城。井伊直平は今川家の軍門に降り、三岳城は井伊家の手を離れて22年間もの間奥平貞昌が城番となり直平は伊平に退いたのだった。
 ここで一旦は力を失ったかのように見えた井伊家だったが、江戸時代に書かれた井伊家の歴史書『井伊家伝記』は、初代共保の伝承から直平の間までは何も記さず、いきなり直平が今川義元によって引馬城主に任ぜられて飯尾淡路守・豊前守親子を井伊家の家老にしたとの記載になっている。飯尾豊前守連龍は後に直平に大きな災いをもたらす人物であり、反対に引馬城から拡張された浜松城は江戸時代の大名にとって出世城の代名詞だった。直平が引馬城主になったことも飯尾氏を家老にしたこともないが、この逸話を入れることで今後の井伊家を暗示させたのかもしれない。

古楽

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