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井伊家千年の歴史(1)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年11月17日更新

井伊共保出生の井

 2007年の大河ドラマは井伊直虎が主人公となる『おんな城主 直虎』に決定した。大河ドラマの長い歴史の中で、徳川家や源氏平家など特定の時代の最高権力者以外で同氏から二人の主人公を輩出したのは井伊家が初めてとなる。一部のゲームユーザーからはよく知られた人物でもある直虎だが、一般的な知名度は皆無に等しく、大河ドラマをきっかけに知名度アップに期待したい。
 さて、そんな直虎の生涯を描くのであれば、井伊家は直平から直政までの4世6代(直平・直宗・直盛・直親・直虎・直政。ただし彦根藩が何度か作成した系図上では直虎が当主であったとの記載はなく「女」と記されている)の当主が登場するだろう。しかし井伊家の歴史は直政の段階で17代(24代説あり)を数える古い家でありその歴史は紫式部の『源氏物語』とほぼ同じ千年を越えているのだ。
 井伊直虎の人生を追うだけでも、今まで知られることが少なかった井伊家に触れることができるが、千年の歴史を紐解くことで戦国期の井伊家だけではなく幕末彦根藩の主張すら裏付けられる。こう考えて大河ドラマ『おんな城主 直虎』をより深く楽しむために数か月を要して彦根に入る前の井伊家を紹介したいと思う。

 井伊家初代は共保という人物から始まる。寛弘7年(1010)元旦、井伊保(井伊谷)八幡宮の神主が、八幡宮前神田の中にあった御手洗井戸の側で赤ん坊の泣き声を聞いた。不審に思い近寄ってみると生まれたばかりと思しき容貌が美しい男の赤子を見つけた、これが後の井伊共保だった。神主は不思議に思いながらも赤子を井中より化現(生誕)した者と考え連れて帰り養育する。この井戸の傍らに橘の木が在ったために赤子の産着に橘紋を付けたため、井伊家の家紋は橘紋であり、旗幕は井戸の井桁を使用することになる。また赤子の産湯は井戸の近くの自浄院(地蔵寺)で掛け、この寺が井伊家の菩提寺となり、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで討死した井伊直盛の法号から龍潭寺と寺号を改めて現在へと伝わっている。
 井戸から化現じた赤子がどのように成長したのかは次稿へと譲り、今稿では井戸の意味について考察したい。井戸とは水を汲み上げる場であり井戸から誕生した井伊家は、混乱した時代や井伊直政が関東に居た時期を除けば長い時間を遠江の浜名湖か近江の琵琶湖という水に所縁が深い場所で過ごすこととなる、井伊家は水との縁を始祖から運命付けられていたのだ。
 水は水龍にも通じる。彦根藩はこれに気が付いていた様で享保15年(1750)に著された『井伊家傳記』の中には「辰年に奇瑞があることを後鑑のため書き上げた」という項目もある。しかし、水は恵みをもたらすが時には水害を起すこともある。井伊家は千年の間に何度も繁栄とどん底を経験する。江戸期の譜代筆頭と桜田門外の変は最も知られた例であるかもしれない。

 

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