湖東・湖北ふることふみ 20
井伊家千年の歴史(6)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年4月18日更新

鏡の宿。本陣の隣、義経宿泊地

 鎌倉時代前期『吾妻鏡』の記載で近江に井伊直綱という人物が佐々木庄に居たこと、承久の乱(もしくは三日平氏の乱)で幕府に逆らった貫名重忠という井伊家に連なる武将が居てその息子が日蓮上人であることなど多面的な井伊家の姿が歴史の断片に見えるようになってきた。
 日吉社宮仕法師刃傷事件から4年後の建久6年(1195)、『吾妻鏡』は源頼朝が奈良東大寺供養のために各地の武士を供に連れたことを記している。2月14日に鎌倉を出発した頼朝一家と250騎を超える供奉人の武士の一行は、3月4日に江州鏡駅を発ち瀬田の唐橋を渡り上洛した。
 この鏡は源義経元服の地であり、峠を越えると平宗盛が斬首された平家終焉の地である。そのような地で夜を過ごした頼朝が何を考えたのか? 歴史に語られない想像をしてみたくなるがそれは別の話である。ただこの四年後に亡くなる頼朝が、晩年に義経や平家一門などの亡霊に夜な夜な悩まされたという伝承はこの地に眠る霊を起こしてしまったのではないかとも勘ぐってしまう。
 鏡から都を経て一行は10日に奈良東南院に入る。この行列の真ん中辺りで三騎ずつ並んだ御随兵の中に伊井介・横地太郎・勝田玄番助の『保元物語』で遠江武士として紹介された三家が記されているのだ(伊井と井伊は同じと考えて問題はない)。
 この後、井伊家の名前は寛元3年(1245)正月9日の鶴岡八幡宮で行われた御弓始の儀で三番目に弓を引いた人物として井伊介が登場している。
 東大寺供養の頃の井伊家当主は7代良直(もしくは8代彌直)、御弓始の儀の時は9代泰直(もしくは10代行直)とも考えられているがこれを一致させる資料は他に見つかっていない。
 さて、鎌倉時代の井伊家について最後に「井伊介」について紹介したい。「介」という一文字には身分が表現されている。律令制の中で国を治める身分は、上から守(頭)・介(助)・掾(丞や尉)・目と段階があり、これは四等官と呼ばれていた。例えば近江国ならば現在の県知事にあたる近江守、副知事にあたる近江介、以下近江掾、近江目となる。ただここで難しいのは当時の守は公家や幕府官僚が任官されることが多く、任地ではそれぞれの地方の有力者が介として実質的な支配体制を確立した。これは遠江でも同じであった。井伊家が遠江介を世襲した家であり、これが「井伊介」と称される所以になった可能性が高い。江戸時代になり伊勢貞丈が『貞丈雑記』という有識故実書を著しその中で「八介」について説明している。八介とは秋田城介・三浦介・大内介・井伊介など八家のことで侍の面目とする官也と書かれている。鎌倉時代の終わり頃に日本の八名家のひとつに井伊家が入っていたと考えられるのだ。

古楽

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