湖東・湖北ふることふみ23
井伊家千年の歴史 9

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年8月10日更新

 南朝に属し宗良親王を助けた井伊道政とは何者なのか? 彦根藩井伊家の系図でも幕末になって急に登場する人物で明治政府に提出した系図に直系の人物として公にしている。江戸期になって書かれた南朝資料に名前が登場することがあったために南朝を助けた勤皇家の井伊家という象徴として追加されたと考えられているのだ。私見ではあるが「道政」は「直政」だと思っている。「道」と「直」を草書で書くと似ている文字を使うこともあるからだ。井伊家中興の祖である直政を暗示させる道政を誰かが意図的に広めた人物かもしれないが、現在は井伊谷宮で忠臣として神格化されている。
 では本当に宗良親王を助けたのは誰だったのか?との疑問が沸いてくるが、『宗良親王御事蹟雑記』という資料には「親王が井伊城に滞在したのは、井伊9代行直公(現在の数え方では10代)在城の時だった」と記されている。
 さて、不本意ながらも北朝の軍門に下った井伊家だったが降伏後も井伊谷周辺の支配を許されていたと考えられている。しかし遠江守護は短い期間に何人も変わる。観応3年(1352)宗良親王や井伊道政と激しい戦いを続けた今川範国の息子範氏が遠江守護に就いたことから井伊家は今川家のために働くことになってしまう。
 応安3年(1370)範氏の弟了俊(貞世)が九州探題に任ぜられ九州の南朝勢力討伐の将兵を遠江・駿河で集めた。この中に井伊家とその一族が従軍したのだった。敵となる九州での南朝の旗頭は懐良親王という人物で宗良親王の弟であり井伊家にとって士気が上がらない遠征となった。翌年二月に出陣した了俊の九州討伐は、1年半をかけて大宰府を落とし九州北部に北朝の拠点を据える。しかし抵抗は激しくこの後十五年もの長い期間九州各地で戦いを繰り返すこととなった。この間特に激しかった戦いとして永和元年(1375)の背振山の戦いがある。筑前と肥前の国境で山岳密教の修験場でもあった地であるだけに一筋縄では落とせなかった地であり、士気が低かった井伊家だけに苦戦が強いられ奥山家当主奥山直朝が討死している。『今川記』には「横地・勝間田・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井悉く討死」とも記されていて井伊一族の犠牲が大きかったことがうかがえるのだ。また応安6年(1373)に井伊二郎という人物が三河巣山の熊野権現に戦勝祈願の懸仏を奉納したと『遠州渋川の歴史』という本に書かれていると井伊家関連の資料にはよく紹介されているが、この井伊二郎という人物も背振山で戦った可能性が高いのかもしれない。
 苦戦の末に九州を平定した了俊だったが、25年の任期を経て解任され帰国している。生き残った井伊家の人々も虚しい帰郷となったのだろうか? 今川了俊の子孫は瀬名氏を称し、そこから分かれた関口義広が直虎や直政の人生に大きく関わることとなる。

 

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