湖東・湖北ふることふみ 27
井伊家千年の歴史(13)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年12月23日更新

井伊谷龍潭寺に残る江戸期の直盛の墓

 井伊直満と直義兄弟にどのような罪があったのかは分からない、ましてやそれが九歳の亀之丞まで殺さなければならないようなものであったのか? 定説として重臣の小野和泉守に冤罪を被せられたことになっているが、そんな罪を一族が重ねながらなぜ井伊家にお咎めがないのかも不思議だが、井伊家では緊急の対策を行わなければならなくなった。
 今川義元の命が下る前に逃がした亀之丞については行方不明として許嫁の直虎すら正確な情報を貰えなかったようだ。直虎は将来を約束した男性がこのような形で急にいなくなってしまったことを嘆き悲しんで龍泰寺(後の龍潭寺)の大叔父南渓和尚に願って出家の道を選ぶ。しかし井伊直盛が尼になることを許さなかった。父と娘の主張が平行線を辿る中で南渓和尚は「井伊家宗家は、備中次郎を名乗る。直虎は女にこそあれ井伊家総領なのだから次郎法師と名乗ればよいだろう」と提案し、尼ではなく僧として直虎を出家させたのだった。これよりのち直虎に関わる文書には次郎法師の署名が見られるようになる。
 一方、亀之丞の逃亡生活は11年に及んだが、小野和泉守の死と今川義元の許しもあったようで無事に井伊谷に帰還し遅い元服を行って「直親」と名乗るようになった。ここでもまた井伊家にとって不思議な事態が発生する。本来ならば次郎法師も還俗し井伊家当主の娘として直親を婿に迎えて夫婦で井伊家を相続する準備を行うのだが、次郎法師は還俗せず直盛は直親を養子として一族の奥山朝利の娘を妻に迎えさせた。これによって許嫁だった二人は兄妹(もしくは姉弟)という関係になる。
 こののち五年間は井伊家にとって大きな騒動が起きない年月が流れていた。しかし永禄三年(1560)に義元が尾張出兵を計画し、松平元康(後の徳川家康)と直盛に先鋒を命じる。桶狭間の戦いの始まりだった。先鋒のまま大高城に入った元康は命拾いするが、鷲津砦を攻めている途中で義元に呼ばれ本陣近くに移った直盛は、織田信長の軍と戦って戦場で自害した。一緒に従った井伊家の主だった家臣十六名や従った兵たちの多くも戦死、井伊家は一気に勢力の低下を招く。そんな混乱のさなかである翌四年二月に直親に嫡男が誕生し虎松と命名された、のちの井伊直政である。喜びに沸く井伊家だったが十二月には今川家の家督を継いだ今川氏真が、直親が今川家からの独立を表明した元康に味方して謀反すると疑い駿府に呼び出し、直親は道中の懸川で殺害され、氏真は虎松殺害を命じる。これは新野親矩が助命を嘆願し何とか許されたが、元康の岳父関口義広とその妻(直虎の大叔母)は元康独立の責任を取らされ自害させられたのだった。
 井伊家は、子と孫のほとんどを失った傷心の老将直平が虎松成長まで率いることになったのだ。

古楽

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