古楽の記事一覧

  • 2021年1月18日

    湖東・湖北 ふることふみ 76
    明智光秀に仕えた彦根藩士(後編) まち・文化

    神吉城祉の神吉頼定の墓(兵庫県加古川市東神吉町 常楽寺)  木俣守勝は九歳で徳川家康に出仕するがこれは幼すぎるわけではない。当時に武士たちは元服前から主に自らの子を預け教育や人間関係の構築を任せている。こうすることで主従関係が穏便に保たれたとも考えられる。しかし守勝は19歳で徳川家を出奔した。  守勝が徳川家... 続きを読む

  • 2020年12月7日

    湖東・湖北 ふることふみ 75
    明智光秀に仕えた彦根藩士(中編) まち・文化

    神戸城祉(かんべじょうし・三重県鈴鹿市)  徳川家康の祖父・松平清康は名将だったと伝わっている。混乱が絶えなかった西三河を統一し、今川氏輝(義元の兄)や織田信秀(信長の父)と対等に渡り合える人物だった。しかし二十五歳の若さで家臣の阿部正豊に暗殺される(守山崩れ)。余談ではあるが、清康を刺した刀は村正の一派であ... 続きを読む

  • 2020年11月13日

    湖東・湖北 ふることふみ 74
    明智光秀に仕えた彦根藩士(前編) まち・文化

    楠城址(くすじょうし:三重県四日市市)  大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていると、今までのドラマではあまり描かれなかった人物や出来事が濃く描かれる傾向が強いため、個人的に登場を期待している人物がいる。それは木俣守勝である。  守勝は『おんな城主直虎』の最終回で、徳川家康から井伊直政に預けられた武将の一人として登... 続きを読む

  • 2020年10月14日

    湖東・湖北 ふることふみ 73
    北条仲時の墓 まち・文化

    六はら山山頂付近の北条仲時の墓  昨年辺りから南北朝時代が注目を浴びているらしい。それに合せるように日曜日の朝には約30年前の大河ドラマ『太平記』が再放送されている。このドラマは、それまで日本史の三大悪人の一人(諸説あり)とされていた足利尊氏の再評価が行われたことでも特筆すべき内容だったが、鎌倉幕府が滅びるま... 続きを読む

  • 2020年8月17日

    湖東・湖北 ふることふみ 71
    大津蔵屋敷 まち・文化

    彦田稲荷神社(大津市浜大津一丁目)  有名な話がある。  足利義昭の要請を受けて上洛し、義昭の征夷大将軍就任を支援した織田信長に義昭は副将軍か管領の役職を与えようとした。しかし信長はこれを辞し替わりに堺・大津・草津を領することを願い義昭は許可を与えた。  これは、信長が商業を重視していた経済感覚を示すものとし... 続きを読む

  • 2020年7月20日

    湖東・湖北 ふることふみ 70
    封建社会の納税(後編) まち・文化

     日本史を俯瞰すると海外では考えられない日本人独特の好みがある。それは「世襲」と呼ばれる代々の血や名誉の繋がりである。  海外でも世襲は存在するが、どちらかといえば権力者が主張するものであり一般人がそれを完全に是とはしていない。  しかし、日本では平安時代初期に財力を失った天皇が千年を超えた現在でも国民の象徴とし... 続きを読む

  • 2020年5月18日

    湖東・湖北 ふることふみ 68
    文久と明治のコレラ まち・文化

    門野留吉翁頌徳碑 / 明性寺(彦根市本町3丁目3-56 )  安政5年(1858)から流行したコレラは翌年に一度収束の兆しを見せる。しかし三年後の文久二年に再び江戸で大流行した。テレビドラマにもなった村上もとかさんの漫画『JIN―仁―』(集英社)の早い段階のストーリーとしてコレラとの闘いが描かれているが、この... 続きを読む

  • 2020年4月13日

    湖東・湖北 ふることふみ 67
    幕末のパンデミック まち・文化

    長野主膳も利用した京都の彦根藩邸跡(木屋町通三条下ル)  世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスはWHOから「パンデミックと言える」との見解が出されるまでになった。実際に日本国内の様々な活動自粛や世界の感染者の推移を見ても世界的流行であることは間違いない。そして全世界と簡単に繋がっていける現在においては... 続きを読む

  • 2020年3月17日

    湖東・湖北 ふることふみ 66
    井伊直滋を供養する寺・法雲院 まち・文化

    井伊直滋と澤村軍兵衛の位牌  彦根城時報鐘を現在の位置に移転させた井伊直滋は、藩主世子の座を捨てて百済寺で出家する。しかし彦根藩でも重要な人物であった直滋は百済寺山門から脇にそれた地に屋敷が与えられることとなる。  その屋敷には書院や長屋も立ち、直滋に従った家臣たちにはそれぞれに屋敷も与えられていた。『愛東の... 続きを読む

  • 2020年2月21日

    湖東・湖北 ふることふみ 65
    幻の三代藩主・井伊直滋 まち・文化

    井伊直滋の墓・百済寺  私の個人的な習慣として、大晦日の夜に彦根城時報鐘で除夜の鐘を撞きに行く。この音色は玄宮園の虫の音と共に『日本の音風景百選』にも選ばれている。鐘を撞いたあと城下に戻ってからまだ誰かが鳴らしている美しい響きは、自然と1年の行いを浄化させてもらえる気持にもなる。  さて、彦根城築城のとき鐘は... 続きを読む

  • 2019年11月19日

    湖東・湖北 ふることふみ 62
    永禄の佐和山城の戦い まち・文化

    六角氏の本陣、荒神山城址(荒神山古墳)  永禄2年(1559)、肥田城水攻め  翌永禄3年、野良田の戦い  2年に及ぶ六角軍の出兵を防いで浅井賢政が勝利を収めたことは近江戦国史における重要事項となった。また足利将軍家にも影響を及ぼしていた六角氏の敗北によって、通説では浅井氏の北近江支配の安定化と六角氏の弱体... 続きを読む

  • 2019年10月16日
    No Image

    湖東・湖北 ふることふみ 61
    野良田の戦い(後編) まち・文化

    宇曽川堤から肥田城址を望む  前回は『浅井三代記』の野良田の戦いを紹介した。今回は『江濃記』を見てみたい。  宇曽川を挟んで対峙した六角・浅井両軍だったが、午前10時頃から浅井軍の百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀の手勢と衝突。戦いの決着はすぐには着かなかったが、六角軍の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百... 続きを読む

  • 2019年9月10日

    湖東・湖北 ふることふみ 60
    野良田の戦い(中編) まち・文化

    宇曽川南岸より撮影。奥の山が荒神山  前回は、宇曽川を挟み北に浅井賢政率いる1万弱、南に六角義賢率いる2万5千(それぞれ兵力は諸説有)が布陣したところまで書いた。この先を伝えるものは軍記ばかりであり一級資料ではないためこの先は物語として読んでいただきたいが、その軍記でも『浅井三代記』と『江濃記』では同じ戦いを... 続きを読む

  • 2019年7月11日

    湖東・湖北 ふることふみ 58
    肥田城水攻め(後編) まち・文化

    江戸期の肥田の堤防  高い堤防に囲まれて、水が容赦なく襲いやがて建物の中にいても床下の水に悩まされるようになり櫓などの高い所に人々が集まって外を見ながら怨嗟の声を上げる……。多くの方は水攻めに対しこのようなイメージを持っているのではないだろうか?  関東で唯一であり日本最後の水攻めとなった忍城水攻めを描いた映... 続きを読む

  • 2019年6月14日

    湖東・湖北 ふることふみ 57
    肥田城水攻め(中編) まち・文化

    肥田城水攻め堤防址  永禄2年(1559)4月3日から始まった肥田城水攻めの詳しい経緯を知る手掛かりはほとんど残されていない。数少ない情報から考察すると、堤防を築き宇曽川と愛知川の水を流し込んだ六角軍は城を囲んだまま安食に本陣を置く。そのまま戦いを仕掛けることはなくこう着状態となる。水を留めるということは大き... 続きを読む

  • 2019年5月10日

    湖東・湖北 ふることふみ 56
    肥田城水攻め(前編) まち・文化

    肥田城跡の碑  六角氏と京極氏の境目の城として時には攻撃を受けながらも、高野瀬氏は肥田城で着実に基盤を築いてゆく。そして宇曽川の水運を利用した発展を遂げ肥田城周辺には城下町も形成されていた。  戦国時代、北近江の京極氏は浅井亮政に実権を奪われ保護下に入る。亮政の子久政は六角義賢に従うことで北近江の安定を図り息... 続きを読む

  • 2019年4月12日

    湖東・湖北 ふることふみ 55
    高野瀬氏 まち・文化

    高野瀬城趾の碑(犬上郡豊郷町高野瀬640)  近江は日本史上もっとも長い期間重要な経済大国だった。それは政治の中心が関西であったためであり、その関西圏から東国へ向かう場合には近江を通過しなければならなかったからだ。細かい話は別の機会に紹介するが江戸時代より前は日本の経済の半分は近江を通過している。  その近江... 続きを読む