湖東・湖北ふることふみ10
織田信長に愛された側室が住んだ館

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2015年6月19日更新

 戦国史のみではなく、日本史の流れを大きく変えた事件の一つに本能寺の変が挙げられる。織田信長の死は同じ時代を生きた人々の運命にさまざまな影響を与えた。そんな信長が晩年に最も信頼し、本能寺の変の後は信長の妻妾たちの中心となって活動した人物が「お鍋の方」だ。
 近江が六角氏と京極氏によって支配されていた頃、永源寺辺りから愛知川右岸地域を中心に大きな勢力を持っていた小倉氏という一族がいた。小倉氏は京極氏に従って六角氏に対する楔のような役割があったのだが、一族で内紛が起こり幾つもの家に分かれ、六角氏に従う者も出るようになる。そんな六角氏に従った家の一つが、永源寺近くの高野城城主小倉東家だった。
 織田信長が桶狭間の戦いで全国に名を知られる前年、小倉東家の当主だった小倉実房はすでに信長との交流があったらしい、信長が上洛すると帰路の手助けをしたと伝わっている。そして金ヶ崎の戦いの後に信長が京から岐阜へと戻った千種峠を越える道も案内したのだ。このとき、信長は六角義賢の敵であり、敵を助けた罪で小倉実房は六角氏に攻め滅さてれしまう。
 実房の妻は男子二人を連れて岐阜城の信長を訪ね「夫はあなたを助けて討たれたので、この子達を助けて欲しい」と訴える。すると信長はその女性を自らの側室にして二人の男子を側近としたのだった。この女性こそがお鍋の方なのです。
 この後、お鍋の方は信長との間に二人の男子(信高・信吉)と一人の女子(於振)を産み、信長の信頼も厚く、安土城での奥向きをまとめるようになった。
 しかし本能寺の変が起こる。信長に仕えていた実房の子の一人は信長と共に亡くなり、お鍋の方は信長の家族を叱咤激励しながら日野城に移り、岐阜城下の崇福寺に書状と信長の位牌を送っている。しばらくして羽柴秀吉が信長死後の混乱を治めると、室房の居城だった高野館と周囲の地そして犬上郡宇尾村(彦根市宇尾町)を含めた二千石が、秀吉から息子の織田信吉に与えられ、お鍋の方も犬上郡の内で四百石を領し高野館に住んだと伝わっている。一説にはこの後に東殿(大谷吉継の母)と共に北政所(秀吉の正室おね)に仕えたとも言われていて、この縁から信吉は関ヶ原で大谷吉継の指揮下にあった平塚為広と共に西軍として戦い、戦後に所領が没収され、お鍋の方と信吉は京で静かに余生を過ごしたのだった。だが京に隠棲した頃は文化人として多くの公家との交流があったとも伝えられている。

 

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