湖東・湖北ふることふみ19
井伊家千年の歴史(5)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年3月23日更新

鎌倉・日蓮上人辻説法跡

 鎌倉時代になると井伊家は一族の中から他の姓を称する人物も登場する。そのような人々が血の繋がりによる団結と場合によっては権力を争うこともありながら遠江国に井伊家の血縁が広がって行った。既に井伊家と血縁関係があるかもしれない遠江武士として横地氏と勝俣(勝間田)氏を記しているが、他の家についても紹介したいと思う。

  • 赤佐氏は、井伊家から早く分かれた家だとされている。保元の乱の頃に井伊家は六代盛直が当主だったと伝えられていて三人の男子が井伊良直・赤佐俊直・貫名政直と名乗り井伊家を含む三家に分かれたのだった。赤佐氏は後に奥山氏を名乗り、井伊直虎の人生に大きく関わる家でもある。
  • 渋川氏は、十代直行の息子の上野直助から始まる家だとされていて渋川村を拠点にしていたことから渋川井伊家とも記されている。室町時代中頃に渋川村で藤原姓を称して神仏への寄進を多く行っていて井伊谷井伊家よりも渋川家が本流だったのではないかとも説もあるが、遠江守護の斯波氏に味方していたため今川氏親が斯波義達に勝利した後に甲斐国(山梨県)へ逃れている。
  • 中野氏は、井伊谷では比較的新しい一族で室町時代後期に十八代忠直の息子中野直房から始まる。中野家から井伊直政の母が再嫁した松下清景(豊臣秀吉が最初に仕えた松下嘉兵衛の一門)に養子に入る人物が出て、その子孫は江戸期を通じて直勝系井伊家の家老を務める。
  • 井平氏は、八代彌直の息子の井平直時から始まるとされている。井平安直・直郷の娘はそれぞれ井伊直平・直宗に嫁していて井伊家との結びつきも強い。そして元亀三年(一五七二)の三方ヶ原の戦いへと続く武田信玄の遠江侵攻の一つ仏坂の戦いで山県昌景と対峙し井平直成討死。井伊直平の息子の直種が井平家を継ぐが、その子弥三郎が井伊直政に従って小田原の陣に参戦し討死。家は断絶する。
  • 貫名氏は、赤佐氏と共に井伊家から分かれた貫名政直の家系。政直の曾孫(孫?)である貫名重忠の頃に承久の乱が勃発し、重忠は反幕府に内通する(それ以前の三日平氏の乱との説もある)。その責を問われて安房国(千葉県)に流され、配所で誕生した男子が日蓮上人だった。日蓮宗の宗派紋が井桁に橘となっているのは井伊家との繋がりがあるからとも考えられている。

 彦根藩に詳しい方々にとっては、彦根藩士の姓として見覚えがある名もあったのではないだろうか? 
 彦根藩では四代藩主井伊直興や十三代藩主井伊直弼など歴代藩主がそれぞれに井伊家の歴史を調査させている。特に直弼は井伊谷などで先祖などの墓の建立などをさせているが、同時に古い時代の井伊家に連なる名家の姓を身内に与えて家を再興させたのだった。それらの家は彦根藩主一門であり重臣として戊辰戦争で指揮を執り、武士が終わる時代にも井伊家の武士として恥ずかしくない活躍を見せたのだ。

古楽

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