湖東・湖北ふることふみ18
井伊家千年の歴史(4)
保元の乱の時に少しだけ名前が登場する井八郎が、源義朝に従いその後も井伊家が源氏に味方していただろうとの可能性を前稿で記した。今稿からは鎌倉時代の井伊家を紹介して行こうと思う。
鎌倉幕府は公式記録として『吾妻鏡』を記し、当時の情勢を現在に伝えている。『吾妻鏡』の中に井伊家に関わるであろう記録が登場するのは建久2年(1191)4月30日になる。記録された人物は井伊六郎直綱、しかも近江で起こった事件に関わっているのだ。
直綱の名前が登場する前の月に近江国佐々木庄で事件は起こった。佐々木庄は延暦寺の所領の一部が入っているが前年に水害が遭った為に領主の佐々木定重とその父の定綱、そして領民たちも比叡山に年貢を納められなかった。そこで衆徒が日吉社の宮仕法師たちを派遣すると、宮仕法師らは神鏡を奉じて佐々木庄の定綱屋敷に押し入って門や城壁を破壊し屋敷内の人々に大層な屈辱を与えたのだった。定重がこれに怒り、宮仕法師の一、二人を家臣に命じて斬らせて殺害、誤って神鏡を破損させたのだ。この事件を受けて、比叡山の山徒が蜂起し佐々木定重の身柄を渡すように求める訴状を鎌倉に送る。この訴状が鎌倉に届いたの4四月30日であり、書状の中で佐々木定綱・定重親子の以外に宮仕法師刃傷事件の中心人物として井伊直綱ら五名を挙げている。
源頼朝は、この事件に対し佐々木一族四名に流罪、井伊直綱ら五名に禁獄(入牢)の沙汰を下したが、佐々木定重が逃亡しすぐに捕えられて唐崎で首を刎ねられ晒されたのだった。他の佐々木一族や五人の禁獄者は後に許されて元の地位に復帰している。
さて、この話に登場する井伊直綱が何者であるのかも井伊家系図では教えてくれない。しかし佐々木定綱は前項で登場した保元の乱で源義朝の下に参じた近江武士佐々木秀義の息子であることを考えると、秀義と共に戦った井八郎の関係者(場合によっては息子)ではないかと考えてもおかしくないのではないだろうか? 記録には残らない憶測でしかないが、佐々木秀義と井八郎は戦の中で意気投合しやがてその交流は息子たちに引き継がれるようになった、だから佐々木定綱と井伊直綱は共に同じ「綱」の字を名前に使ったのではないか? とも考えてしまう。そこまでの深い交流が考え過ぎとしても、佐々木家に井伊家が仕え近江に居たことは間違いないのだ。
続いて、日吉社宮仕法師刃傷事件が起こった場所がどこであったのかを考えてみる。事件の前年に源頼朝が小脇宿で一泊した記録があり、その半世紀後に小脇に佐々木家の館が登場することから、小脇館が事件現場である可能性もある。小脇館は太郎坊の麓にあったとされているが、井伊家が直政より400年も前に近江に関わったのであれば、興味深い事例ではないだろうか?
【古楽】