" />

安国寺恵瓊 肖像画

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年3月26日更新

 3月15日彦根の清凉寺で「三成の戦 2」というイベントが行われていた。チラシをよく見て驚いた。石田三成肖像画と安国寺恵瓊肖像画板絵が龍潭寺で特別公開されていたのだ。3月23日、29日、30日にも公開されるというから是非とも観ておきたい。安国寺恵瓊はNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」に登場したと聞いた。恵瓊は彦根とも関係があるからどんな風体で描かれているのか興味あるところだ。
 夢京橋キャッスルロードの中ほどにある宗安寺は、元は安国寺と称する寺だった。起源は、上野国(群馬県高崎市)の安国寺に由来する。「安国寺」は、室町幕府が全国平定を願って、各国の一寺を選び、与えた称号である。
 戦国時代に入り、上野国の安国寺は荒廃したが、天正18年(1590)井伊直政公は、小田原征伐などの戦いで功績をあげ、徳川家康公の関東入国とともに上野箕輪城十二万石を与えられた。この時、正室東梅院が両親の菩提を弔うために安国寺を再興した。
  慶長3年(1598)直政公が高崎城主になると安国寺は高崎に移り、更に、慶長5年(1600)、関ケ原の戦後、直政公が、石田三成公の佐和山城城主となると佐和山麓に高崎安国寺を分離させて建立する。しかし、関ヶ原の戦で敵方に安国寺恵瓊という武将がいたため、開基東梅院の父君の戒名から「宗」の一字を、母君の戒名から「安」の一字をとって「宗安寺」と改められたという。そして、慶長8年(1603)、彦根に城を移し、宗安寺も現在の位置に移築されたのである。
 安国寺恵瓊(?~1600)は、本能寺の変の10年前、天正元年(1573)、使僧として将軍足利義昭と織田信長の不和調停のため上洛。その時、信長と秀吉の器量を看破した。そして三成の性格を知り抜き、秀吉の死後、家康討滅の挙兵するならば三成から必ず相談があるはずだと密使を待っていたという。事実、慶長5年(1600)三成が大谷吉継に決起を打ち明けた後、安国寺恵瓊は佐和山城を訪れている。
 さて、龍潭寺(彦根市古沢町)は、奈良時代天平5年(734)に遠江国引佐郡井伊谷に行基が開いたのが始まりで、寛治7年(1093)、井伊家始祖藤原共保が寺内に葬られて以来、井伊家の菩提寺となった。井伊直政公が佐和山城主になったのを機に、慶長7年(1602)、遠江国から、佐和山西麓に分寺された。
 この龍潭寺に安国寺恵瓊の肖像画が伝わっている。
関ヶ原南宮山東麓にあり、出陣できぬままに苛立っている恵瓊だろうか。何故、龍潭寺に伝わるのか……。その記憶は400年の時に晒され失われたままである。

編集部

スポンサーリンク