小鮎塚(米原) versus 石川千代松博士(彦根)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 米原市 2013年11月6日更新

醒井養鱒場 小鮎塚

 二宮金次郎と零戦の話から皇紀2600年が気になっている。昭和15年は西暦1940年。昭和の年号に25を加えれば西暦の下二桁になった。西暦に660年加えれば皇紀になる。皇紀とは、史上初の天皇となったといわれる神武天皇の即位年を紀元として数える日本独自の年代の数え方である。
 さて、琵琶湖の固有種であるビワマスを始め、アマゴやイワナといった清流に棲息する淡水魚の養魚施設として、東洋一の規模を誇ると謳われた醒井養鱒場に「小鮎塚」があることを知る人は少ない。碑文には「皇紀二千六百年十一月十日」と日付が刻まれている。そして、醒井養鱒場で小鮎の養殖が行なわれたことはなく、ちょっとしたミステリーである。
 日本はちょうど日中戦争の戦時下にあった時代だ。二宮金次郎像は、勤勉・倹約の姿が象徴化され、国策に利用されたようだが、養鱒場に建てられた小鮎塚にはどんな意味があるのだろう。
 アユは魚偏に占うと書く。神武天皇が大和の地に辿り着くまでの戦いの途中、敵に包囲され進退窮まったとき、天皇が「飴を壺に入れて川に沈め、酔って魚が浮かんで来たら、きっと大和を平定できる」と占ったところ、アユが浮かび上がり、天皇は占いどおりに大和を治めることが出来たという故事に因み、以来、アユは「鮎」と書かれるようになったとされている。
 皇紀2600年、戦勝祈願として琵琶湖の代表的な淡水魚である小鮎にちなみ、東洋一の養魚施設に記念碑が建てられたのではと考えている。
 そして碑文には概ね次のようなことが書いてある。琵琶湖産小鮎は大正年代の末期より注目され、全国河川に移植されるようになったこと。天野川上流丹生川に放流試験を実施し、その成果で小鮎は大鮎と同種で、体型の大小は環境の相違に基因することを実証するに至ったこと。小鮎の河川移殖事業の創始発達は歴代の水産試験場員各位の努力と農林水産局の活魚遠距離輸送試験のたまものであるということ。そして、歳月を経ることによって、この尊貴すべき発見創意に関し異説を生ぜんことを恐れここにこれを併記すると記されている。

彦根旧港湾 石川千代松博士胸像

 ところで、彦根の旧港湾のかつて鮎苗協同組合があった場所に石川千代松博士の胸像がある。昭和49年に石川先生小鮎移殖顕彰会が建立したもので、「石川先生顕彰の碑」には次のように記されている。
 『石川千代松先生(1861―1935)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められて出来た生態学上にいう陸封現象の所産であって鮎と別種のものではないと信じ、大正2年に小鮎を東京多摩川に試験的に移入してそのことを実証した。(中略)先きに最初の実験地多摩川の青梅大柳河原に、「若鮎の碑」が奥多摩漁業組合と土地の有志によって建てられたが、当会は小鮎の産地である琵琶湖畔の而も此の実験の原点である彦根市に、先生の胸像を建て、当会に御援助を賜った方々と共に、永く先生の栄誉をたゝえ遺徳を偲ばんとするものである』。
 「小鮎塚」と「石川先生顕彰の碑」。碑文や顕彰碑に記すことができる文字数は限られる。どちらも真実を伝え、どちらも書き足りない部分があるのではないだろうか。
 皇紀2600年に小鮎塚を建て、わざわざ「この尊貴すべき発見創意に関し異説を生ぜんことを恐れ」た併記をしなくてはならなかった理由は何なのか……。今、ミステリーを解く鍵は閉ざされているが、当時を生きた人々の記憶を集めることができれば、真実に近づくことができるだろう。
 さて、「小鮎塚vs石川千代松博士」の結末は、少し時間をいただきたい。とりあえず解く気満々である。紅葉の美しい養鱒場へ行こう。

小太郎

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