湖東・湖北 ふることふみ4
光秀伝承を残す城  明智丸

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 多賀町 2014年12月23日更新

 近江には、まだまだ知られていない城が数多く存在する。それはこの国が京都の東に位置し、水運の要である琵琶湖を有している立地的な条件と、山に囲まれた地形的な条件が複雑にかみ合っているからだ。このため、大きな城だけではなく小さな城にも何らかの理由があり築城されている。山に囲まれているということは大きな防御ラインがあるように見えるが、実は隣国と地続きである。山は苦労してでも越えられる壁でしかない。ならばこれを監視する城も必要になってくる。
 三重県から鞍掛峠を越えて、犬上川の川沿いに進めば、多賀や甲良に出るのは決して難しいことではなく、湖東の要所にいきなり隣国の軍勢が現れることも可能だった。このような事態にならないように、監視の城として築城されたであろうと考えられる拠点の一つが明智丸だ。

 多賀町佐目の十二相神社から高室山に続く登山道に入り、多くの登山客で開かれた登り坂の厳しい山道を三十分ほど登ると狭いながらも開けた場所に出る。ここが明智丸の入り口となる。しばらくは緩やかな土橋が続き、自然の地形を利用したであろう急な上り坂の堀切を登る。その先には三段くらいの曲輪と思われる平地があり、一番奥が建売一戸建て住宅の一階部分くらいの広さの主郭となっていた。所要時間は登り始めから一時間弱。ここで高室山に向かう道とは外れ、もう一本の急な下り坂を降りる。すると途中から巨石に出会うようになる。そのまま進むと道はやがて緩やかになり、大きな岩を乗り越えてまた急な上り坂に挑まなければならない。
 坂を登る途中から左右に岩の列が見えるようになり、登りきると犬上川の流れる音と数えきれないくらいの岩で形成された見張り台に到着する。ここが明智丸の一番奥になる。
 今は多くの樹木に囲まれて犬上川まで見下ろすことはできないが、この木々を切ったならば監視としての役割は充分に果たせたことが想像できる。そして犬上川から見張り台に繋がる道なき道は、急峻な崖となっていて、岩の上から狙われたならば逃げることもできずに討たれるだろう。
 さて、このような山城に、一つの伝承が残っている。『近江與地志略』には「明智十左衛門生國美濃を立退き土岐氏を背き、此地に莱り居住す」とあり、六角高頼の扶助を受けたことや、十左衛門の息子十兵衛光秀が織田信長に仕えたことが記されている。明智光秀が育った城であるとの記載なのだ。
 私の個人的な説としては、この地の見晴らしの良さが「開けた地」や「明るい地」などの意味で「あけち」と呼ばれていて、それを誰かが「明智」に結び付けて光秀の伝承が生まれたのではないかと考えている。
 確かに明智光秀の生立ちは不明な部分が多く、生誕地も岐阜県にある二か所の「あけち」の城とも言われ、この城は斎藤道三が討死した後に斎藤義龍によって攻め滅ぼされている。しかし、この時の光秀はすでに成人し足利義輝に仕えている。父と一緒に近江の城に籠る必要はない。そもそも明智一族が近江にどのような縁があるのかも謎である。
 一方で「光秀の生誕地は滋賀との県境に近い岐阜県上石津町の多羅城(多良城)である」と光秀五十回忌に作成された『明智系図』では記している。多良から時山~五僧を越えれば多賀に至る。ならば光秀の一族と多賀との関わりが無いとも言い切れない。答えが出ない歴史は不思議で面白い。

 

古楽

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