湖東・湖北 ふることふみ3
隠れた山城 男鬼城

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年11月19日更新

三重堀切を主郭より見下ろす

 紅葉から雪が降るまでの短い季節が、山城を訪れる一番のチャンスであると言われている。葉が落ちて遠くまで見渡せるようになり、城の戦略性が見えてくるからなのだ。
 少ない知識ながらも歴史に愛着を持っている私のところにも時々お勧めの山城を訊ねられることがある。その折、候補として上がる一つが男鬼城(高取山城・男鬼入谷城)だ。
 国道8号線を佐和山トンネルから鳥居本に向かう途中の右側に比婆神社への案内板を目にする。案内板に従って細い山道を進むと男鬼の廃村や比婆神社に到着する。神社の本殿の上を通る無礼を詫びながら年貢道と呼ばれる尾根道を東へ半時間ほど歩くと高取山の山頂を越えて下った場所にいきなり急な上り坂と虎口が出迎えてくれる。
 虎口を抜けると人の手で平坦になったことが確認できる曲輪が並び、その奥には堀切と呼ばれる空堀のような掘削の痕跡、その奥には二か所の主要な曲輪が連なっていた。メインと思われる曲輪には低いながらも石積の跡もあり、その奥に急こう配の下り坂から堀が浅いながらも三連の堀切が繋がっていた。
 この地は、現代は人を寄せ付けないような山の中にあるが、昔はこのような防御力が高い城が築かれるくらいに栄えた場所なのかと言えば、そうではない。どの時代まで遡っても歴史の表舞台に立つ場所ではないのだ。そのアンバランスさが男鬼城を面白く演出し、謎解きゲームのような高揚感を与えてくれる。
 史料から探すならば、『大洞弁財天当国古城主名札』には「男鬼城主川原豊後守」との名前があり、『江州佐々木南北諸士帳』にも「男鬼 住 河原豊後守」と書かれている。これらの史料から彦根藩士の源義陳が寛政4年(1792)にまとめた『近江小間攫』では川原豊後守が城主だったことと城址が残っていることが記されている。ただしこれ以上のことは闇の中(否、山の中か)であり推測するしかない。
 彦根市教育委員会文化財課は、京極高広の南下ルートが霊山山系を越えて芹川に沿って平野部に出るルートだったことから「京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推測されており、抗争で立てこもる拠点として男谷入谷城が築かれたのではないかと考えられています」(広報ひこね2012年12月1日号)と紹介している。
 私は、城主の名前から考察してみる。『甲良町史』の概説に 甲良は古くは「かはら(河原)」と読んだ で始まる一文があるように河原は甲良に繋がるのではないかとも考えている。河原豊後守という名前は知らないが、甲良豊後守は甲良町三偉人の一人で日光東照宮造替工事の大棟梁の甲良宗広のことだ、宗広は江戸初期の人物だが『近江與地誌略』の中で甲良氏は京極道誉の子孫と記している。豊後守は公式な物ではなく自称だが、甲良氏の系図を見ても宗広以外には豊後守が出てこない。ならば一族の中に豊後守を称する人物が居て、宗広も使用したのではないだろうか? 男鬼城主河原豊後守は京極氏の血縁となる甲良氏の一人であり、京極家家臣として高取山の城を任されたのかもしれない。
 このような魅力あふれる山城だが、訪問は熊対策も行って決して一人では行かないで欲しい。山道の達人と登山と同じ装備をおすすめする。

古楽

スポンサーリンク
関連キーワード