秀吉、移住計画

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2010年4月5日更新

長浜市元浜町

 長浜のまちなかを歩いていると、現在とは違う町名が記された石碑があちこちに建っている。その多くが昭和の半ばまで使われていた町名だ。石碑をたどっていると、いくつか見覚えのある町名に出会う。近隣地域と同名のものがあるのだ。
「伊部」や「郡上」は湖北町域にもあるし、「箕浦」は近江町域にもある。実際、かつて湖北町域、近江町域に住んでいた人々が、長浜に移住してきたことが、これら長浜の地名のルーツとなっている。戦国時代に遡る話だ。
 当時、湖北を支配していたのは、小谷城を居城としていた浅井長政。長政は織田信長の妹・お市を妻とし、信長と同盟を結んでいた。ところが信長に背いた越前の朝倉氏側に長政がつき、信長と衝突する。元亀争乱と呼ばれた幾度かの合戦を経て、浅井・朝倉軍は敗れ、小谷城は落城、長政は自害した。
 この時、戦功をあげたのが、木下藤吉郎。のちの豊臣秀吉である。秀吉は浅井氏の領地を与えられ、小谷城に入城し、その後今浜と呼ばれていた場所に城を築く。秀吉は今浜の名前を「長浜」と改め、以後7年間長浜城を居城にし、城下町を発展させていった。

湖北町郡上(平成22年1月より長浜市小谷郡上町)

 今浜一帯は集落が点々と存在しているだけだった。一方小谷城は落城したものの焼失はせず、北国脇往還沿いに町屋が並んだ城下町は、大規模で機能的にも優れていたようだ。それでも秀吉が小谷から今浜に城を移したのは、湖岸に立地し水上交通に便利であり、さらに北国街道が走り、中山道にも近いため陸上交通の要衝でもあったことが大きな理由のひとつとされている。
 郡上、伊部は小谷の城下町を構成する主たる地であった。箕浦には浅井氏の有力武将・今井氏の城があり、城下は市が立つほど賑わっていたようだ。秀吉はこれらの地に住む人々を地名ごと、長浜へと移り住まわせた。また長浜のまちなかにある寺院のいくつかは、小谷城下にあったと伝わる。今に例えるなら都市部で商いを繁盛させていた人々が、造成中の新興地にいきなり住むことになったという感じだろうか……。
 そして、まちなかの石碑のひとつに「神戸町」がある。「ごうどまち」というなかなか難解な読み方をする。この「ごうど」は近江町域にもあってこちらは「顔戸」と書く。漢字は違うが、何らかの関連があるとみなされている。
 戦国ゆえの運命ではあるけれど、のちの長浜が商人のまちとして賑わっていく礎の部分を築いたのは、こうした人々の力があったからこそかもしれない。

 

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