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井伊家千年の歴史(21)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2017年11月10日更新

 1つの家を1年のドラマにするとき、それまでは知られることもなかった人物が登場し活躍することがある。井伊直政の姉である高瀬姫もその1人ではないだろうか?
 「直政に姉がいたことなんて知らなかった」と、彦根の中でもよく耳にする。また「高瀬が架空の人物ではないか?」との質問もよく受けたが、高瀬は正真正銘直政の姉である。しかし、高瀬の生涯はその誕生から謎に包まれている。
 彦根に伝えられた話では高瀬は直政の二歳年上の姉とされているが、高瀬と直政の父直親は信州亡命から井伊谷に帰国した後に奥山朝利の娘を正室に迎え、5年間後継ぎに恵まれなかった為、龍潭寺で祈願した世継観音のご利益で子どもを授かったとの話がある。つまり最低でも直親夫妻に五年間は子どもがいなかったことになり、そこから高瀬は直親が信州で産ませた子どもとも考えられており、直政よりも6歳以上年上との説もある。または直親が井伊谷に帰ってきてから正室以外の女性に子どもを産ませたと考えても良いのだが、果たして真実はどこにあるのだろうか? 本稿では彦根藩の記録である二歳年上説でこの先の話を進める。余談ではあるが、今年になり世継観音の厨子から天正3年に井伊次郎法師が世継観音を大藤寺の本尊にした記録が出てきた。今まで「井伊次郎直虎」と「次郎法師」の名前は出ていたが、井伊家と次郎法師を直接繋ぐ物が『井伊家傳記』であったために「井伊次郎法師」という名が出てきたことの意味は大きい。
 さて高瀬の話に戻ると、直虎生存中の人生はよくわからない。直虎死後、直政が元服し井伊家当主となると家臣団の団結も重要になってきた。新野家の娘を木俣守勝に嫁がせるなど、井伊家と主要家臣を政略結婚で結ぶ一つとして高瀬も川手(河手)主水良則に嫁いだ。このとき高瀬は当時としては晩婚となる24歳であり良則も51歳、すでに前妻との間に息子も居た。実情もわからないが良則は直政の居城で留守居を任される存在となる。
 彦根城築城後、川手家は現在の玄宮園辺りに屋敷を構えていたが、良則の跡を継いだ良利は大坂夏の陣において討死。良則と高瀬の間に誕生した娘に婿を迎えて家の存続を図るも若くして亡くなってしまい川手家は三代で家が滅びたのだった。
 高瀬は川手家が断絶した後も長寿を保ち、寛永11年(1634)に亡くなった。享年76歳。江戸後期に記された『近江古説』では高瀬(ここでは馬瀬姫になっている)を京鳥辺野に葬ったと記されているがその埋葬地はわかっていない。供養墓は佐和町長純寺に五輪塔が残っている。
 川手主水は現在の南川瀬町にも屋敷があり、その地に墓所も残っている。またその家名は新野家や貫名家と同じく江戸後期に再興されている。

古楽

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