明治水準点

世紀の発見に違いない

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年2月1日更新

 1996年4月25日DADAジャーナル153号で僕は「明治地図記号」について書いている。ゴールデンウィークを意識したタイトルは「連休はこのマークを探せ!」。脳天気商会の提供記事だ。脳天気商会とはいっても何をするでもなく当時は、記事署名の代わりにこの名を使っていた。こんな記事だ。
 「幻の水準点マークというのがあるそうだ。『ラパン』という雑誌で見つけたのだけれど、明治時代に地図の作成にいろいろあったらしい。難しいことは解らないのだけれど、幕末はフランス式で地図を作成していて、明治になって文官系の内務省はイギリス式を採用して、武官系の参謀本部がドイツ系で地図の作成を進めていたということで、結局イギリス式が幻になってその水準点のマークが今に残っているというのだ。
 その水準点マークを明治水準点と命名し、「明治水準点の会」というのもできている。
 この水準点、神社やお寺にもあるらしく、東京市街地を中心に、横浜や琵琶湖インクラインでも発見されている。
 そんならば、ひとつ連休で出掛けたならば、この水準点を頭の片隅に置いておいて思い出したように、昔からあって動かないである石を探してみようと思うのだ。
 万が一でも発見できれば、探した人だけが味わえる喜びに巡り会えるというものだ。こういうことが好きなんだな」。
 20年も前の若い文章だが、僕は今でもこういうことが好きなのである。そして、20年間、ずっと明治水準点を探していた。そして、2016年12月27日ようやく、彦根の井伊家水軍の拠点「水主町(かこまち・現 松原一丁目)」で巡り会ったのである。彦根史談会が建てた「井伊水軍水主町跡」の石碑に並んでそれはあった。これは世紀の大発見に違いないと思っている。
 20年前の記事のままでもいいのだが、翻訳しておくことにする。翻訳で更に解りにくくなる場合もあるのだが……。
 調べてみると、「明治政府は明治4年に測量司を設けイギリス人マクヴィーンの指導で日本で最初の三角測量を始めた」(「几号水準点とは」山岡光治氏のHP)、「近代内務省では1876年(明治9)頃から水準測量を開始」(「几号水準点の始まり」上西勝也氏のHP)。当時は水準測量のことを高低測量といい、測量で用いられた几号(きごう)標識が残存している。この標識が「明治水準点」である。「几号水準点」、或いは、「高低几号」、「几号高低標」、漢字の「不」に似ていることから「不号水準点」とも呼ばれている。独立した標石のほかに建物、鳥居などの永久構築物に刻印された場合もある。永久構築物は不朽構造物ともいい、朽ちず動かないであろうものに「几号」が刻まれたのだ。不朽物としては石造橋梁、石垣、神社の鳥居、灯篭、狛犬の台石などである。
 「明治初期の測量は、工部省測量司・内務省地理寮(のちに局)・陸軍参謀局(のちに測量部)がそれぞれ行っていたが、明治17年に陸軍参謀本部陸地測量部に一元化された。このときドイツ式測量術が採用された」(観測機器が伝える歴史10―基本水準標―朝尾紀幸)。
 ということは、明治4年から明治17年の間に「明治水準点」は設置されたことになる。
 僕らは数年前から数々の近代化遺産をDADAで紹介してきた。近代化遺産とは、「幕末から第2次世界大戦期までの間に建設され、我が国の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物」(文化庁)である。近代化にかかわる遺跡、銅像や顕彰碑も含まれ、政治・経済・社会・教育・思想・文化・宗教といったさまざまな領域で推し進められた近代化を今に伝えているものだ。ならば明治水準点はもう「立派な」を通り越して象徴的な近代化遺産であり文化財なのである。
 ちなみに、水主町の几号水準点には、「不」号の他に、「F No73」と記されている。彦根に少なくとも他に水準点があることを物語ってはいないだろうか……。相変わらずこういうことに、わくわくするのである。
 この明治水準点の在処を教えてくれた鈴木達也さんに感謝したい。20年の恋が叶ったみたいだ。

小太郎

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