四七番目の義士・寺坂吉右衛門の墓

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2014年12月16日更新

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)の深夜、47人の赤穂浪士が吉良上野介義央の邸宅に討ち入った。「忠臣蔵」で知られる、赤穂浪士の仇討ち事件だ。
 本懐を遂げた浪士たちは、翌年2月4日に切腹。このとき、46人の浪士が切腹した。
 残る1人、寺坂吉右衛門は、浪士たちが吉良の首を泉岳寺に供えるときにはすでに隊を離れ、姿を消していたという。
 寺坂吉右衛門は、47士のなかで唯一、士分ではなく足軽の身分だった。身分の違いのために大石内蔵助良雄に逃げるよう命じられたという説や、あるいは自ら逃亡したという説など、吉右衛門が他の浪士たちと最後まで運命をともにすることがなかった理由には、諸説あるようだ。
 吉右衛門は討ち入り後44年生き、延享4年(1747)に83歳で死んだ。その墓が、東近江市・永源寺にある。

 永源寺を愛知川の彼岸に見ながら八風街道をダムに向かって行く途中、山手にひっそりと階段がある。その階段の先、永源寺の末寺臨済庵の址につくられた小さな墓地に、歴代の住僧の墓石とともに吉右衛門の墓は並んでいる。
 墓とともに謂書があり、それによると、赤穂浪士に対する毀誉褒貶の真只中に生き残った吉右衛門は大石内蔵助の遺命により長寿寺(東近江市池之脇町)に入り、その後永源寺の四院曹源寺の仙霊祖竺和尚について得度したという。その末寺臨済庵で主家や藩士の菩提を弔いつつ寂しく生涯を終えた。僧名が刻まれた墓があったがいつしか盗難にあったので昭和55年有志により再建された旨が記されていた。
 また、長寿寺には大石内蔵助の叔父が宿坊しており、大石内蔵助良雄が江戸へ行く際、長寿寺で一泊し千種越で湯の山(三重県)へ出たという由来も書かれていた。
 大石内蔵助の叔父については今回調べがつかなかったが、長寿寺では大石の書状などを所蔵しており、この地に赤穂浪士とのゆかりが偲ばれる。もっとも吉右衛門の墓は、享保年間頃に身を寄せていた江戸麻布の曹渓寺や、赤穂浪士が葬られている泉岳寺のほか、宮城県、静岡県、福岡県など、全国各地の吉右衛門ゆかりの地にある。それほど、赤穂浪士の物語が人びとを惹きつけたということなのだろう。

 なぜ同志と別れたのだろう、討ち入りに参加しながらもその後を生きながらえたのはなぜだろう。ただ事でない人生をどんな気持ちで過ごしたのだろう。「仇討ち」も「切腹」も、私からすればなかなか現実味を帯びない出来事だ。問いかけもそらぞらしいが、それでも墓を前にすればそんなことを考える。
 泉岳寺に葬られた義士の戒名にはすべて「刃」の字が刻まれたが、寺坂吉右衛門の戒名にだけは「刃」の字は入れられず、「遂道退身信士」とされた。永源寺の墓石に刻まれた名は、僧名と伝わる「霜山刃光座元禅師」。「刃」の文字が、道を別れた同志たちに通じている。

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