近代化遺産としての印刷物 1
佐和山神社の行方

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年7月1日更新

『近江鉄道湖東御案内』部分(大正4年 吉田初三郎筆 個人蔵)

 「近代化遺産」とは、一般的には幕末・明治維新から第二次世界大戦終結までという近代を物語る構造物のことをいうが、近代化の様子を知ることができれば、紙(印刷物)でも石でも何でも近代化遺産だと僕は思っている。そして、今注目は、観光パンフレットや鉄道沿線ガイドだ。当時の人々が何を愛で、何を楽しみにしていたのか、或いは、過去にはあったが今は失われてしまったものなど、印刷物は多くを物語ってくれる。
 写真は、大正4年(1915)、近江鉄道多賀線開業の翌年に発行された吉田初三郎筆の『近江鉄道湖東御案内』の一部だ。この裏面には「御案内の辭」(辭・ことば)と写真や絵もあり、実に、楽しい。
 さて、路線図の面は『近江鉄道沿線乃院線と諸国の関係』というタイトルで描かれている(院線とは簡単にいえば国有鉄道のこと)。
 大正4年には多賀と高宮の間に「土田」の駅、彦根と高宮の間には「新町」、近江鉄道の米原駅はまだ無い。彦根市は彦根町と記されている。彦根城の表記はなく代わりに「古城山迎春舘」とある。そして「佐和山神社」。迎春舘と佐和山神社の建物は、現在の彦根にはない。迎春舘についてはいずれ記事にする予定だが、今回は佐和山神社について調べてみた。
 福井県敦賀市栄新町に、「天満神社(敦賀市指定文化財)」がある。実は、この「天満神社」の本殿が佐和山神社社殿なのだ。北陸自動車道路を走れば小一時間で到着する。栄新町は北陸道総鎮守「氣比神宮」と、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である「金ヶ崎の戦い」があった「金ヶ崎城址」の間にある。

佐和山神社社殿だった福井県敦賀市栄新町の天満神社

 新修彦根市史(2009年)には次のように記されている。
 「彦根藩主井伊直中が、井伊直政とその子直孝を祀るため、文化4年(1807)から8年にかけて、清凉寺の南丘上に護国殿を建設したのがその始まりである。明治初年の神仏分離によって、清凉寺から別れて佐和山神社となった」。江戸時代には護国殿という建物だったのだ。
 その後、佐和山神社は昭和13年(1938)井伊神社に合祀されて廃社となる。井伊神社は、井伊家の始祖井伊共保を祀るため、天保13年(1842)に龍潭寺の境内に創建されたのが始まりだ。
 敦賀の天満神社の創建年代は不詳。神社の解説板によれば「昭和20年の空襲により全焼したが、戦後、地元氏子によって再建が協議され、昭和35年に佐和山神社の社殿を譲り受け移築し、現在に至っている」とある。日光東照宮を範とする権現造の建築様式で繊細華麗な彫刻が施されている。社殿は大洞弁財天を一回り小さくしたような感じである。
 ここまで書いて与えられたスペースが残りわずかになったことに気づいた。この続きは「DADAラジオ」で話すことにする。6月29日午後2時〜4時。日曜日の午後、スマートフォンやiPhoneでも大丈夫。雨が降って何もすることがなかったら「DADAラジオ」を……。

小太郎

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