坂本城跡湖中石垣 令和3年11月18日撮影
令和3年の秋、滋賀県に台風被害のニュースが聞こえなかった。台風での増水を防ぐために事前に琵琶湖の水が放出されているため琵琶湖の水位低下が深刻な問題となっている。
この反面、私のような歴史好きにとっては何年かに一度のチャンスとも考えてしまう。それが湖中史跡の出現である。長浜城の太閤井戸や膳所城の石垣そして坂本城の石垣も見逃せない。
平成6年(1994)の琵琶湖水位低下は100センチを超えた。このとき坂本城の石垣が姿を現しニュースとなった。近年では大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が築いた城として広く知られた城の一つであり、昨今の城ブームで無名であった城にも人が訪れるため、坂本城が話題に上ることに違和感はない。しかし平成6年の渇水時には今のようなブームとは無縁でありながら坂本城の石垣に多くの見学客が詰めかけていた。もちろん私もその一人だった。
再び坂本城の石垣が湖中より現われたと聞き見学に行ってみた。坂本城跡の湖中石垣は本丸跡と言われている区画の東にコの字方に残るもので石垣を構成する上で重要な支えとなる根石になる。大津教育委員会の『坂本城跡発掘調査報告書』によれば南北ラインで長さ22メートル「このラインの石垣は基礎石だけではあるがすべて残存していた。残存する石材はすべて東面して構築されている」とのことであった。とくに南隅から南面が良く見学でき大きな根石と裏込石に使ったと思われる小さい石が歴史のロマンを掻き立ててくれる。
坂本城本丸は水城であり、城から直接船に乗って琵琶湖を横断し安土城に行くこともできたが、水に沈む石垣をどのように造ったのだろうか? 水城ではなくとも彦根城の堀の石垣などでも同じ疑問がわきあがってくるかもしれない。そもそも石垣はすべて石でできている訳ではない。土塁を積んでその周りを石で固めているので水によって土塁が崩される心配も考えられる。崩れない工夫の一つは土塁と大きな石の間に裏込石と呼ばれる小さな石を詰めて、水を土塁内に留めず排水させることである。また石垣の上に建物を乗せることでその重みが石垣を安定させるコツにもなっている。そして水城や堀に面した部分、地盤が軟らかい土地に建てる城などにはもう一つ大きな工夫が施されている。それが石垣の最下部である根石の下に胴木と呼ばれる木材を敷くことなのだ。
木材と水と考えると木に水が染みていき腐ってしまいそうなイメージがあるが、実は木材は水に沈んだままでは腐ることがない。この性質を活かした上で耐水性が強い松や椎類の角材や丸太を最下部に敷き、その上に厚い板状の胴木を重ね細かい石で補強、それから根石を並べる作業へと取り掛かったのである。
本来ならば石垣作りに適さないであろう場所にも巨大建築を施す技術にも人の探究心を感じることができるのだ。
「Fox Hole」、文字通り「狐の穴」である。今まで何度かFox Holeについて書いてきた。ある程度のボリュームがあるものはDADAジャーナルで4回ほど。最初の原稿は2017年、この原稿を5回目とする。
Fox Holeは稲荷の社に空けられた穴のことだ。コンクリートや石組みの台座に空いているものもある。Fox Holeの最初の発見者は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だ。『新編 日本の面影Ⅱ』に、Fox Holeのタイトルがある。八雲が「Fox Hole」と記し、翻訳者が「狐の穴」とした。「稲荷神社の社殿の裏手の壁には、たいてい、楕円か円形の穴が開いているのを見かける」と書いている。
僕が知る限り日本語でこの穴について言及した書物はない。日本古来の正式名称があるのかどうかも今のところわからない。
湖東湖北のごくわずかな場所でしか蒐集(コレクション)していないが、ひよっとするとFox Holeの蒐集は世界初かもしれない。社寺を巡りどんな神様か仏様がおいでになるのかわからないとき、稲荷社かどうかをズバリと判断できるところが素晴らしいのである(ただそれけなのだが……)。
こんもりとした山にある仙琳寺(彦根市古沢町946)は、彦根藩第4代井伊直興の庶子本空(幼名千代之介)を開基とする天台宗の古刹である。直弼もこの寺で茶会の亭主をつとめるなど親密な関係にあった。また、寺の東側(佐和山側)の斜面、竹薮の中にある石田三成の茶の井(伝)、石田地蔵、首から上の病にご利益があるといわれている恵明権現など、僕にとっては興味津々なスポットなのだ。
鬱蒼としていた西側(琵琶湖側)斜面が整備され、陽が差して清しい場所になっていた。今まで見えなかった古い社が3つ並んでいた(随分長い間忘れられていたようだ)。
社は向かって右から大中小、古さは判断しにくいが、大きな社が新しく、小さな社が最も古い様子だが、いつの時代のものかまではわからない。早速、Fox Holeを確かめると全て稲荷社だった。どういうわけで3つも並んでいるのだろう。祀られているのは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)か、荼枳尼天(だきにてん)か。鳥居が建っていた気配がないので、仏教系の荼枳尼天かもしれない。
石田三成の佐和山城時代には、この辺りに修験者がいたといわれている。何の根拠もないが、戦国時代の勝利を祈った稲荷、江戸時代の子孫繁栄・五穀豊穣を祈った稲荷、そして現代、商売繁盛を祈った稲荷、そんなふうに考えてみる。妄想は、どこまでも翼を拡げる。
八雲は異邦人で日本に興味を持った。僕らはもう日本の文化に関してハーンと同じなのだ。必要なのは好奇心だけのようである。
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11月23日、第20回近江中世城跡「琵琶湖一周のろし駅伝」が行われた。佐和山は午前10時過ぎにのろしがあがった。前日は雨が降っていたが石田三成のイベントがあるときには必ず晴れるらしい。三成ファンの間では「治部少晴れ」という。僕はこの日の午後、「石田群霊碑」参道整備に参加した(三成の戦実行委員会主催)。
石田群霊碑の存在は一般にはほとんど知られていない。井伊家の菩提寺清凉寺にある(無許可の立ち入りは禁止)。 清凉寺は島左近の屋敷地であったことでも有名で、本堂裏手の墓地には、井伊直政から歴代蕃主の墓が整然と並んでいる。墓地を迂回するように山手を行くと、護国殿跡に至る。背後の急斜面を登り尾根を行くと、木立のなかに「石田群霊碑」がひっそりと立っている。
昨年に引き続き2回目の整備である。佐和山の西の丸上段曲輪に彦根市が立てた案内板があり、地図には竪堀を下って群霊碑に至るように描かれている。傾斜が急で危険が伴い、ルートを知らないと迷うこともある。更に、遺構破壊に繋がるかもしれない。
そこで、許可を得て、清凉寺から登ることができるルートを整備するのが目的である。今年は、武将隊(豊臣秀吉と大谷吉継)、佐和山ののろし隊、神奈川県や愛知県から参加した人々、ご住職夫妻とお母様もご一緒くださり、21名での整備となった。
参道の落ち葉を掃き、歩きやすいように木立の枝を落とす。倒木を並べてルートを作り、群霊碑を清め、斜面に落ちていた墓石をあげた。僕は昨年、倒れた墓石を動かして背中の筋がピシッと音がした。今年は慎重に行動したので、ほとんど役にたっていなかったかもしれない。
最後、ご住職が読経をしてくださるなか、皆で焼香をした。昨年より随分バージョンアップした参道整備だった。
ところで、この石田群霊碑はどういった経緯で建立されたのか。『三成伝説』(オンライン三成会編・サンライズ出版)には、「11代藩主直中の意向により、18世漢三和尚が建立したもので、当時、お家騒動が絶えなかった井伊家では、成仏しきれないでいる石田の霊の仕業だと恐れ、件の供養碑を建てたのだとも聞く」と書いてある。佐和山城落城はよほど悲惨な戦いだったのだろう。200年余りが過ぎても石田群霊を気にしていたのである。 当時のお家騒動とは何か。天寧寺(彦根市里根町)が建てられた理由に関係しているのではないかと思っていた。腰元若竹が、不義の子を身ごもったと知り激怒した直中はこれを重く罰し、お手打ちにした。後になって、若竹の相手が長男直清であることが明らかとなり、若竹と腹の子、すなわち初孫の菩提を弔うため天寧寺を建立し供養したといわれているからだ。文政2年(1819)のことである。石田群霊碑の建立は文化5年(1808)4月。時系列が合わない。井伊家に何があったのか、大きな宿題になった。
我が家の掃除や事務所の整理整頓は全くできないのだが、僕は成果が目に見える参道整備が好きである。来年もまた、参加すると決めている次第だ。
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石川千代松博士の胸像写真が必要だったので撮りに行ったときの話だ。彦根の旧港湾、かつて鮎苗協同組合があった場所(彦根市元町)、船町の交差点近くにある。昭和49年(1974)、石川先生小鮎移殖顕彰会が建立したもので、「石川先生顕彰の碑」には次のように記されている。
「石川千代松先生(一八六一│一九三五)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められて出来た生態学上にいう陸封現象の所産であって鮎と別種のものではないと信じ、大正二年に小鮎を東京多摩川に試験的に移入してそのことを実証した。(中略)先きに最初の実験地多摩川の青梅大柳河原に、『若鮎の碑』が奥多摩漁業組合と土地の有志によって建てられたが、当会は小鮎の産地である琵琶湖畔の而も此の実験の原点である彦根市に、先生の胸像を建て、当会に御援助を賜った方々と共に、永く先生の栄誉をたゝえ遺徳を偲ばんとするものである」。
かつて小鮎と大鮎は種類が違うと考えられていたが、同種であり、鮎の体の大小は環境の違いに影響されることが証明され、鮎養殖や移植放流の起源となったのだ。
「千代宮常夜灯」は、石川千代松博士の胸像から30メートルほど南に建っている。
常夜灯は街道沿いに夜道の安全のため設置されたもので、道標の役目も担っている。千代宮常夜灯は石灯籠で高さは3メートル以上はあるだろうか、「明治四十年再建」と記されている。経年変化も美しい。
「千代宮」は現在の「千代神社」(彦根市京町2丁目)である。天岩戸神話や、天孫降臨神話で活躍する女神「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」を主祭神とする神社だ。かつて佐和山の麓(古沢町)、「姫袋」というところにあった。藤原氏の荘園があり、藤原不比等の娘が住んでいたと伝わる場所である。姫袋は現在でいうと、国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。
千代神社と呼ばれるようになったのは明治2年からである。そして、千代神社が現在地に移されたのは昭和41年。遷宮が行われた理由はDADAジャーナル「千代神社と藤原不比等の娘」に掲載している。
さて……、「千代宮常夜灯」の建っている場所と常夜灯の再建年代に「?」とひっかかった。千代宮への標となるはずの佐和山へ続く道沿いでないこと。明治2年には千代神社と呼ばれていたはずなのに、明治40年に再建された常夜灯の名称は「千代宮」なのだ。
僕の疑問は案外簡単に解けた。文化財保護課の鈴木達也さんが彦根市史に載っていると教えてくれたのである。『新修彦根市史 民族編』25ページ「柳町」のところである。
「現在の元町の一部で、彦根町の北に接し、朝鮮人街道の両側に町屋が並ぶ。西側の町屋の裏は外堀である。『大洞弁財天祠堂金寄進帳』には家数六七軒、うち借家三三軒とあり、米屋五軒、小間物屋・鍛冶屋各三軒などに加え、青屋(紺染屋)などがあったことを記す。この町の北端、外船町との境付近に、昭和二十五年(一九五〇)の台風で倒れるまで、町名の由来ともなった柳の老木が立っていた。
この柳には石田三成の妻の父宇多頼忠に関する次のような伝承がある。頼忠の妻は美人の評判が高く、琴の名手でもあったが、あるとき三成の家臣である鷹井右京という者から思いを寄せられ、相愛の仲となった。それを知った頼忠は妻を斬り殺してこの地に埋め、柳の木を植えたのだという。倒木する以前、柳の下には千代宮の常夜灯が建っていたが、この常夜灯は移されて今でも現存する。」
整理すると、昭和25年(1950)まで柳の老木があり、この柳の下に件の常夜灯があったということだ。明治40年に再建された常夜灯は千代宮時代のものを移設したものだ。そして、柳は石田三成の義父宇多頼忠の妻を埋めたところに植えられていた。佐和山城時代のできごとが現在にまで繫がっている。
では、柳の老木が何処にあったのか? 彦根城博物館所蔵の「御城下惣絵図」を調べてみたが、柳町と外船町との境付近がわからない。
ただ、石川千代松博士胸像の近くに「外舟町五六番地先」と記された石碑がある。江戸時代舟入が設けられたところを示しているのだろう。柳町の北端であり外船町との境界あたりになる。遡る術はないものだろうか……。
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彦根市本町三丁目の信号から見る彦根城天守
今更ではあるが「総構え」の定義は難しい。城を中心とした外郭と解釈されている。単純に考えると防衛や生活・経済が城と総合的に結び付いていて堀や土塁などで囲まれた区域である。
中国などの諸外国の城は城下町を含み高い城壁に囲まれている光景である。これに対し日本の城は城下町の外れにしっかりとした区切りが感じられない。理由として現在は城の定義に城下町まで含まれていないために研究が進んでいないこと、明治維新から現在までの町作りで総構えの外郭である堀や土塁などが早々に壊されたことなどが挙げられる。
そもそも、九州北部を除く日本の戦では異民族の襲来が無かったため玉砕を覚悟しなければならないような凄惨な守城戦が行われなかった立地も総構えに高い城壁を有しない結果となった。それは江戸時代においても城下町が総構えで囲まれた有限的な区域で終わるのではなく城下の外でも安全に町が拡大できたためにますます総構えを感じることが難しくなっている。
彦根城においての総構えはどこであるのかと考えるならば、史料として『御城下惣絵図』の範囲であると考える。北は松原内湖・南は芹川・西は琵琶湖・そして東はJR琵琶湖線の少し西側までの範囲となる。
『御城下惣絵図』は彦根城を紹介する本などに掲載されていて彦根城博物館のHPでも閲覧できるため興味がある方は調べていただきたい。そのときに注目してほしい部分は城側の外堀沿いである。ここに緑色が塗られた部分があり、堀と一緒に城下町を囲んでいる。この緑色は土塁があった場所を示し、城下町の総構えには土塁と外堀が一つの区切りであったと知ることができる。彦根城下には幸いにして土塁が残っている場所がある。以前に銭湯だった山の湯が庭園築山として使っていた場所で平成27年(2015)に本格的な調査が行われている。これによると土塁の底辺18メートル、上辺4メートル、高さ城内側5.5メートル、城外側6メートルだった。そして土塁上部は竹藪になっていたことも記録に残っている。単純に考えれば外堀の内側は十メート以上の壁に遮られていたこととなる。外堀から遠く離れないと山の上に建つ天守すら見ることができなかったであろうと想像できる。彦根城天守を目印にしながら攻め寄せる敵は外堀近くで城を意識した瞬間から目標となる天守を見失うこととなる。実はこれは外堀を突破したのちに中堀を攻めるとき、そして中堀を突破したのちも攻め手に天守が見えない不安を与える作事が行われている。
私は隠れた彦根城ビュースポットとして城西小学校西側の本町三丁目の信号辺りを案内することがあるがこの場所も江戸時代には土塁と竹藪で天守が見える場所ではなかったのである。私たちが当たり前のように彦根市街地から見る彦根城は、江戸時代には当たり前の光景ではなかったのだ。
彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)
前回、彦根城下町は彦根道から始まったと考えられることを記した。これは彦根だけの話ではなく都市計画においては当たり前のことである。しかし、時代の需要によって町の形は変わってくる。
古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。
7月、長浜市民体育館での体験会で
他のまちにはない長浜だけが紡ぎ続けた歴史……。それはアメリカンフットボール(以下、アメフト)である。
今を遡ること71年前、1950年に旧長浜市立第四中学校(現在の市立南中学校)でタッチフットボール部が創部された。これは日本初のことだったといわれている。翌年の1951年3月、第四中学が「第1回関西ジュニアタッチフットボール大会」で優勝すると、米原・彦根でも創部が相次ぎ、高校ではアメリカンフットボール部の創部へとつながっていく。
この原動力となったのが、第四中学で教鞭をとっていた故吉川太逸さんだった。
戦後、日本に駐留していた進駐軍の兵士らはグラウンドを見つけるとすぐにフットボールを楽しんでいた。それは見たこともないスポーツだった。吉川さんは興味を持ち、「このスポーツで子どもの体を丈夫にし、スポーツでアメリカに勝つ人材を育てたい」と夢見た。ルールブックを手作りしたそうだ。
吉川さんは、大観衆の中でプレーさせてやりたいと甲子園球場で東西の大学が王座を決める「甲子園ボウル」の前座試合として中学生チームが対戦する「関西中学生選手権大会」を実現させた。現在の「長浜ひょうたんボウル」の前身にあたる「長浜ボウル」を1951年に開催。地元の人にアメフトを知って欲しいと始めたものだが、甲子園ボウル、ライスボウルに次ぎ日本では3番目に歴史ある大会となっている。
吉川さんはユース、ジュニア育成の先駆者として日本アメフト連盟の殿堂入りも果たされたアメフト界のレジェンドである。そして、多くのプレイヤーを輩出してきた長浜は、アメフトの聖地なのである。
今年7月、長浜フラッグフットボール協会が発足し、小学生を対象にした体験教室が行われた。フラッグフットボールの起源は、アメリカンフットボールにある。1チーム5人で対戦する。アメフトで行われるタックルは禁止。その代わりに腰に付けた布(フラッグ)を奪う。名前の由来はここにある。体への接触が少ないため防具も必要ない。
「アメフトについて、長浜には他のまちが持たない魅力がある」と話すのは、同協会の代表・伊藤和真さんだ。副代表の堤義定さん、事務局の小林大英さんと一緒にお話をうかがった。3人は、学生時代アメフトのプレイヤーであり、長浜青年会議所のメンバーとして、長浜のまちづくりや振興を共に考えてきた仲間でもある。長浜で子どもたちにフラッグフットボールに親しんで欲しいと協会を設立したそうだ。
どんな競技なのかを知って欲しいと体験教室を開催したが、その反響は予想以上だった。「アメフトの経験者が指導者を引き受けてくれるし、クラブチームができれば参加させたいという保護者の声も多数あった」と小林さん。
堤さんは「足が速いとか、ボールを正確に投げられるなどに加え、作戦を考える役割もあり、運動が得意な子どもでなくても活躍できる場面は多く、協力し合うので会話が増え連帯感が深まる。その経験はスポーツ以外の場面でも役立つ」と考えている。
現在、教員の働き方改革で学校での部活動の時間は短縮傾向にあり、子どもたちは習い事や塾で運動離れの傾向にある。フラッグフットボールは、2020年、文科省の教育指導要綱にも掲載され、2028年のロサンゼルス五輪では追加種目になる可能性も高い。
伊藤さんは「アメフトを知る人が多い長浜の強みを生かして、フラッグフットボールでまちを盛り上げたい。観戦してもらえれば面白さがわかるはず」と熱っぽく話す。
9月中にはホームページが完成予定。コロナ禍で延期した2回目の体験会を開き、クラブチーム結成へつなげていきたいと考えている。
この夏、東京2020オリンピック・パラリンピックが開催された。コロナ禍での開催に賛否両論はあったが、テレビ観戦にくぎ付け状態だった。選手へのインタビューでは、開催や競技を支えた人への感謝とともに、「子どもたちに夢を与えられたと思う」「この競技をやってみたいと思って欲しい」というコメントも多く耳にした。
アメフトの聖地からフラッグフットボールの黎明。ロサンゼルスに向けて歴史が動き始めた……。必要なのは努力し続ける才能と見守りつづける才能だけである。ドラマチックだ。
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近江八幡市の「賀茂神社」は僕にとって不思議な神社だった。3か月程前に受けた仕事が終わり、納品のために加茂町に向かった。9月7日、天気も上々、気分もよかった。 目的地まで2分ほどのところで、スマホのルート案内に従うと、そこは大きな神域を持つ賀茂神社だった。僕は導かれたような気がした。
車を駐め、早速車内で検索してみると「奈良時代、天変地異が起こり、国土が危機的な状況でありました。時の聖武天皇は、この日本の荒廃を憂い、天変地異のない世を願い、国土の災厄を封じ、人々の幸せを願う神社を創建する為、吉備真備(陰陽道の祖とも仰がれる)に命じ、陰陽道により、日本の『気』(エネルギー)の集まるところに神社を建てるため、天からの光が降り注ぎ、大地のエネルギーが集まっているとされる当地が選定され、更に陰陽道の技を尽くし、天平八年(七三六)、日本の『気』の集まる地(中心)に鬼門の方位に神社を向けて、災厄を封じ、そこに荘厳な社殿を造営し、賀茂大神を迎え、当社を創建になられました」とある。
日本の災厄を封じる!? 吉備真備!? 陰陽道の技!? 天平8年!? 刺激的な文字が並んでいた。
今、世界は新型コロナウイルス感染拡大という厄災に襲われている。僕はコロナ収束を祈った。賀茂神社こそ祈るに相応しい神社はないと思った。
絵馬には八咫烏(やたがらす)が描かれていた。賀茂神社の主祭神は、「賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)」。神武天皇が熊野山中で道に迷ったとき、賀茂建角身命は八咫烏に化身し導いたのである。
社務所でパンフレットをいただいた。謎の記号が記されていた。
パンフレットによると、「これは、古代文字であるヲシテ文字で『みつほのみや』と書かれています。ホツマツタエによると瓊瓊杵尊(ニニキネ)が当地に宮(住まい)を構えていたとされ、「ミツホノミヤ」とされました。」
僕には理解する基礎知識が欠けている……。更に、パンフレットには、と記されている。「フトマニ」と読む。「吉備真備は当時、古代文字で書かれた国の歴史を記された書『フトマニ』に加筆していたことが残されています。そのことによって、吉備真備もこのフトマニを認識していたことがわかります。この地が、ニニキネ(天孫降臨の瓊瓊杵尊)の拠点である『瑞穂の宮』であったとされていたことを知っていたのではと言われています。」
広辞苑に「ヲシテ文字」は載っていなかった。ウィキペディアには、[ヲシテは、いずれも江戸時代中期には存在したことが確認されている『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『カクのミハタ(フトマニなど)』を記述している文字である。旧来は「ホツマ文字」とも呼ばれていた。この3文献は「ヲシテ文献」と呼ばれている][江戸時代に創作された神代文字のひとつであるとされている]と書かれていた。
この不思議を理解したいと思った。更に、賀茂神社には好奇心を刺激する多くの不思議で溢れている。何枚も写真を撮ったのに、ある場所だけデータが残っていなかったなどという話(事実)は別にして、機会があれば、記事にしてみたい。ホツマ文字で紹介することがで
きるかもしれない。
鳥居本宿南端・彦根道への石柱
《道》は不思議である。「すべての道はローマに通ず」との有名な言葉があるように日本が記録に残る歴史を有する前から人類史の中で道は重視されていた。では道が人類の英知なのかと言えば、それは否と答えざるを得ない。動物が動く場所には目に見える形で獣道ができる。また植物が繁殖するルートも道である。極端な言い方をすれば単細胞生物が移動する行程も道と解釈できる。
単細胞レベルでも確認できる《道》だが、一方で人類の経済活動にとって重要かつ不可欠な存在でもあるのだ。
有史以来、人々の生活にまず道ができた。小さな村単位での生活では村の中に通る道で充分であり、生活圏が外へ広がるに比例して道も延びていく。そして近くの村の道と結ばれることとなる。今から四半世紀ほど前には史家から「江戸幕府はオランダや朝鮮などの使者に国土を広く感じさせるために街道を曲げて造らせた」との説明をよく聞いたが、実は先に個々の村々の道がありその道を無理やり繋げたことで道が無理に曲がる原因となった。地方分権であったため幕府といえども道を統一させるのは不可能だったのである。それでも五街道の制定などの国家事業を遂行させた功績は大きい。
さて、長々と《道》の話を書いたが、戦国時代後期辺りから大名たちも道の重要性に気付くようになる。軍事道路を整備した武田信玄や楽市楽座により道を使い易くした六角定頼・今川氏真・織田信長などである。特に信長は東山道(中山道)から離れた安土に城を築くことで脇街道である下街道(現在は主に県道二号線)を現代でも使用される主要道路へと発展させた。
城は必ずしも主要な街道沿いに建てなくても良いと信長が示した。この城下町造りは彦根城築城において発展を遂げる。安土では既存の下街道を利用したが、彦根城下町では新たな道を作っていく。第一期工事で彦根山周辺の村々を強制的に移転させ善利川の流れすら変えて生まれた広大な平地。中山道から離れたこの平地に町を造るには中山道から城下を通る道を考えなければならない。幸いにも信長の下街道が摺針峠から琵琶湖方面に結ばれているためこれを利用することとなる。鳥居本宿南端から佐和山の切通しを越えて彦根城下町に入る「彦根道」である。彦根道は下街道へ繋がり野洲宿から中山道に合流する道と、芹川の浅瀬を渡って高宮宿に入る道が考えられているがどちらにしても中山道を旅する人々が譜代大名筆頭井伊家の城下町に寄るためには中山道から外れることになる。現在の彦根市域で考えても彦根城下・高宮・鳥居本はそれぞれに経済効果があったのだ。その上で街道に大型兵器などを通させない軍事的観点から幕府は悪路を推奨した。このため旅人の殆どが徒歩である。城下町を中山道から離すだけで、彦根藩領を抜けるために数日の宿泊を行う旅行客が見込めたのである。私は彦根城完成後の町造りは、まず彦根道から始まったと考えている。
胴は麦藁を束ね千草で覆い麻縄で縛る。麻縄の上に菅を巻く。胴の上には船を乗せる。船は千草と菅で編んだもので形作られている。
「ヤッサ」は、犬上郡甲良町金屋に伝わる伝統祭事だ。集落にある「金山神社」の森に奇っ怪なオブジェが吊されており、それが何なのか、真実をずっと知りたかった。
今年3月、コロナ禍で休業していた「おだいどこ 野幸」(甲良町正楽寺)が営業を再開し訪れる機会があった。農事組合法人「ファームかなや」が運営する農家レストランである。地元の米と野菜を使ったランチは組合員のお母さんらの手作りである。なつかしいやさしい味。自然と笑顔になるというから新型コロナの感染拡大が収束したらDADAで紹介したいと思っている。
「野幸」は「やさち」と読む。店内にヤッサの写真が飾ってあった。「今年ヤッサがあるならばぜひ知らせて欲しい」とファームかなやの代表理事の鋒山定治さんに頼んでおいた。7月末「昨年はコロナ禍でできなかったが、今年は8月7日にヤッサを作ります」と電話があった。
この祭事はかつて毎年8月7日だったが、現在は7日に一番近い土曜日に行われる。七日盆(なぬかぼん)で、金屋では「千草盆」という。お盆行事のはじめの日である。今年は奇しくも7日が土曜日で、暦通りとなった。起源を辿れば旧暦7月7日七夕でもある。
「千草盆」の日、金山神社にヤッサが奉納される。実はヤッサは行事の名ではない。千草盆がヤッサとして認知されるようになったのである。僕自身、千草盆を知らなかった。
ヤッサは「胴」とその上に乗せられた「帆掛け船」でできている。
胴は、麦藁を束ねたものを千草(茅・千萱:チガヤとも)で覆い、麻縄で10〜12ヶ所縛りその上に菅(スゲ)で化粧巻きを施す。最後に餅藁で作った化粧まわしを付ける(藤蔓の化粧縄の年もある)。船は千草と菅で編んだ構造部材で作る。舵、錨に見立てた菅の房、野菜で作った船頭を取り付ける。
胴を季節の花で飾り、船には芭蕉の葉と竹でできた帆を揚げ、ススキとトラノオで飾る。最後に化粧縄の正面に「デコ」と呼ばれる野菜で作った人形を取り付けて「ヤッサ」が完成する。胴体は男性を表し、船は女性を象徴しているといわれている。デコは、花咲かじいさん・牛若丸・桃太郎など昔話に題材を求めたものや、世相を反映したものなど工夫が凝らされ、今年は東京2020オリンピックのデコが登場した。
金屋の集落の男衆が集まり、この奇妙な「ヤッサ」作りに丸一日を費やす。実際は、藁は勿論だが千草や菅の調達、トラノオの栽培など1年がかりで準備をする。トラノオはヒモゲイトウ(別名:仙人穀)という植物だが、何故か金屋では「トラノオ」と呼ぶ。毎年種を採り、4月20日頃に種をまき「ヤッサ」のためだけに育てている。
僕が金山神社に到着したのは午前9時過ぎ、境内の集会所の横にある建物に20代〜70代の40人ほどの男衆が既にヤッサ作りを始めていた。遠くにある台風の風を感じる蒸し暑い日だった。
昔、男児がなくて困った村人たちが男子誕生を神様に祈ったところ願いが叶い、その出産と健やかな成長を願って「ヤッサ」を拝殿のまわりに奉納した。これが8月7日の七日盆、「千草盆」であるといわれている。最初は千草の束に花を添える簡素なものだった。
「ヤッサ」という名は、「野幸(やさち)」、「家幸(やさち)」が転じたとする説がある。「野幸」は豊かな実りを、「家幸」は子孫繁栄を祈ったのだろう。また一説に、ヤッサは金山神社本殿の右側(東側)に鎮座する道祖神「弥賽(やっさい)」に生産を祈るという意味だとも伝わる。始まりは鎌倉時代にまで遡るというが、実際のところよくわからない(もう少し時間が必要だ)。
千草盆の翌日には、昔から鎮守の森の杉の木に掛けられた縄(現在はワイヤー)に一対「ヤッサ」を吊るす。このヤッサを種(たね)ヤッサという。種ヤッサが落ちる時期によって豊作を占っていた。
僕が観た奇っ怪なオブジェは、後の祭りだったわけだ。
今年は鋒山卓矢さんの長男煌人(あきと)さんの誕生を祝うヤッサだった。鋒山家(奉納家)と金屋の集落で一対のヤッサが奉納された。奉納は2年続けるので、来年も煌人さんのヤッサが奉納されることになる。
「正直にいうと面倒だなと思っていますが、父も私が生まれたときヤッサを奉納し祝ってくれたので、同じように祝ってやりたい」と卓矢さんは話す。ヤッサが受け継がれる理由がここにあるのではないだろうか。
しかし、金屋の集落の人々はヤッサの継承が年々難しくなっていくことを案じている。若い人たちの農業離れや少子化という社会的な事情とともに、ヤッサに使う植物の調達が困難になってきているのだ。例えば、今年は千草が調達できず慌てたという。金屋で千種を育てようとチャレンジしたこともあったが、ヤッサに使えるだけの背丈には成長しなかった。そして、何故、男児だけ祝うのかという現代的な切実な問題もある。
昔は長男が生まれたそれぞれの家でヤッサを作り奉納した時代があった。肩に担ぐことができるくらいのヤッサもあったという。
実は卓矢さんは金屋を出て彦根市に住んでいるが、鋒山家を継ぐ子として、皆で喜び祝ったのである。
思うにヤッサは跡継ぎ誕生の祝いと健やかな成長を願うだけに作るのではない。時代時代の多様な祈りが込められ、少しずつカタチを変え、現在に至っているのではないだろうか。ヤッサに謎が多いのも願いを反映しているからだと僕は思っている。課題が解決され、新しい世代のヤッサが生まれることを期待したい。謎が一段と深くなるのだが。
参考:『湖国百選■祭−踊■』他
]]>『長曽根郷土史 わがふるさと長曽根の歴史』表紙
歴史調査に欠かせない情報として郷土史がある。
郷土史作成は、行政が市史・町史などの編集時に協力した郷土史家の声掛けや歴史継承の危機感など多くのきっかけがあるが平成から令和へと時代が進む今は郷土史を作成する最後のチャンスであるとも言える。それは太平洋戦争を経験した肉声が聞けるタイムリミットが迫っているからである。
6月に滋賀県彦根市長曽根町歴史勉強会が『長曽根郷土史 わがふるさと長曽根の歴史』を発刊されたとのニュースが流れ私も拝読させていただいた。
長曽根は、彦根・里根と共に「三根」と呼ばれ彦根城築城以前から栄えていた地域と言われている。「根」とは山の尾根から連なる平地に開けた土地という意味があり、「曽根」という言葉になると河川氾濫ののちにできた自然堤防の意味もある。水や土壌が豊かであることは交通の要所でもあったのだろう。同書にも掲載されている彦根城築城以前の古地図を見ても長曽根村の大きさは彦根村・里根村よりも広大であったと考えられるのだ。
私が長曽根のことを強く意識したのはNHKドラマ『真田太平記』で長曽根村に忍び小屋が作られていたことだった。ドラマの設定はフィクションではあるが、556戸の長曽根村は、彦根城築城時に井伊直勝(直継)から周辺の村々も含めて大規模な村落移転をさせられたとの記録を読むと、勝手に石田や真田の匂いを消そうとしたのではないかと関連付けて妄想したくなってしまう。
また長曽根には「虎徹の井戸」と呼ばれる史跡が残っている。幕末京都で起こった池田屋事件。ここで死闘を広げた新撰組局長近藤勇が使用した刀こそ長曽袮虎徹興里が作刀した物であり、他の隊士たちの刀が使えなくなる程の被害を受けた激闘でも虎徹は無傷であったと近藤が身内に送った手紙に記した。このため刀剣好きだけではなく歴史ファンに認知されている刀鍛冶に長曽祢虎徹が挙げられ、その長曽祢こそが長曽根村のことと言われている。虎徹興里には越前出身説もあり刀鍛冶として活躍した地は江戸になるが彦根城築城を境として村人の移動があったならばその中に一族が含まれていた可能性は低くない。
時は進み明治29年(1896)。琵琶湖大洪水の被害は湖岸の町である長曽根村にも甚大な被害を及ぼす。曽根という地名の由来意味を重ねてみるならば虎徹の井戸に代表される水の恩恵も水害の被害も納得できるものなのかもしれない。この水害をきっかけに長曽根村や八坂村などの人々がカナダに移住する。それらの日系人が野球チームを作り活躍した映画『バンクーバーの朝日』に繋がるのもこの地域なのだ。
今稿では書ききれない歴史が長曽根町にある。その歴を残そうとされた『長曽根郷土史』は市販がされていないため、興味がある方は彦根市立図書館で読んでいただきたいとのことであった。