ソラミミ堂

生命合理主義の旗 —前編—

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年11月22日更新

 世の中は、おおきな変わり目にさしかかっていると思います。
 どんな変わり目か。
 僕は、経済合理至上の世の中から、生命合理の世の中、いのちのことわりにかなう世の中への変わり目だと思います。
 極論すれば現在は、様々なものごとの価値がお金というただ一本の定規でのみ計測される世の中で、あらゆるものにぺたぺたと値札が貼られ、ということは、値段の付かないものは無価値無意味と断定され、さらには安全や安心や、いのちにまでも値札が貼られていく。
 より新しく、より大きく、よりはやく遠くといったことが一等で、古く、身近でささやかで、ゆっくりとしたものごとは、肩身の狭い思いをしている。
 と言っても、新しいこと大きいことそのものに罪はない。僕らが僕らの想像力をちゃんと使っていないのだろうと思います。僕らのまなこに「偏向」レンズがはりついている。
 お金にも罪はない。お金を蔑み、要らないと言いたいのではありません。
 例えばお金といのちについて、手段と目的という順序で見ると、目的はやはり、いのちの進展であり、その豊かさなのであって、お金というのは、それを実現するための、数ある手段や道具のうちのひとつであったのだと思います。
 その人自身や家族のいのちを養い充実させるため、人と人をつなぎ、価値と価値を結びつけるためにこそお金はあり、経済はあって、あるいはそのためにこそ、働くということがある。
 そのはずが、いつの間にか、目的と手段が逆転してしまったのではないかと思うのです。
 お金のために身を削りいのちを削ってしまう。「お金さえ払っていればいいや」と言って、人と人、人と自然のつながりが、かえって疎遠になってしまう。
 僕たちは、お金のために働きますが、その働くということも、本来の姿と比べて、ゆがんでしまっているのかもしれません。
 働いても貧しいということは昔からありますが、現代では経済的・技術的合理性や効率性が増大する一方で「働くということそのものの意味や内容が、歴史上、もっとも貧しくなってしまった」と言われると、働く人が、機械の部品のように使われ捨てられ、ということが日々報じられてくる世上をかえりみて、頷かざるを得ませんでした。
 しかし、そうした世の中から、もうひとつの世の中へ、僕らは歩み入りつつある。僕はそれは、生命合理の世の中だろうと思うのです。(つづく)

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