ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂9 わがやのゆめ

このエントリーをはてなブックマークに追加 2015年5月6日更新

作品 上田三佳

 今年の春祭りは、雨で神輿の渡御が取り止めになった。班長のはしくれとして、はりきって準備したので残念だ。
 ちょうど一年前に、同じ町内の、そこからここへ引っ越した。というより「九」から「六」へ、湖に向かって櫛の歯状にほそくならんだ通りを二すじ、またいだ。
 物理的にはわずかな距離だが、家を一軒、借りて住むから買って住むへの移動というのは、物心ともにそれなりにおおきな跳躍ではあった。
 ところがそんな跳躍なのに、自分の意思でエイッ、ヤっと跳んだ感覚がない。
 わが家はもともと百数十年も前からそこに建っていた古民家である。夫婦そろって今どきの新しい家には興味が持てず、結婚以来、古民家めあてに探し始めて十年あまり、思いがけない身近に見つけた家だった。
 古民家に住む同類たちに、試みに、その住む家との「馴れ初め」を聞いたところを総合すると、血眼になって探していても見つからないし、かといって、じっとしていて見つかるものでもないようだ。恋人同士の出会いに近い。
 面白いのは多くの人が「家に呼ばれた」、あるいは「家の声を聞いた」という経験をしたらしいこと。そして時にはまだ煤だらけボロボロの屋敷に足を踏み入れた刹那、そこで誰かと暮らし、それとも何か事業をしている自分の姿がありありと脳裏に閃く経験をしたらしいこと。
 フムフム、思い当るのである。
 ある棟梁のこんな喩えも面白かった。
 古民家は、眠りのなかにある年寄だ。ある日誰かが呼びかける。家は目覚め、しかし急には立ち上がらない。足腰を撫でさすりつつ、ミシミシと、ふしぶしをきしませながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる。そのようにして、百年の民家は起きる。年寄りの背中をさする、そんな手つきで、人々は柱を、梁を、建具を撫でる。
 百年の家がまどろんでいる。夢を見ている。ああ、そうか。我らが夢見た家ではなかった。我らが家の夢に見られた。
 わが家がうーんとのびをした。
 これから夢の続きを暮らす。

 

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