関ヶ原の英雄 大谷吉継は余呉町出身!?

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2011年7月21日更新

大谷吉継の首塚の伝承がある祠(米原市下多良)

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成との友情に殉じ徳川家康と戦った大谷吉継(越前敦賀5万7千石)は高潔の士としてよく知られている。裏切りが横行する戦いにおいて友情を貫き、東軍に寝返った小早川軍と勇壮に戦う吉継に魅力を感じる人は多い。一説には、不幸にして、癩病を患い、関ヶ原の頃には既に盲目に近く、竹輿に乗って一軍を指揮したと言われている。
 吉継の出生地については諸説あるが、長浜市余呉町小谷とする説がある。福井方面に向かう国道365号線沿いの集落で、小谷と書いて「おおたに」と読む。
 『淡海温故録』によれば余呉町小谷を、『大谷刑部少輔此村の出世也。若名慶松と言ふ。秀吉公長浜御在城の頃召出され、段々立身の後、若狭小浜城主大名となり、関ヶ原役に石田方にくみし滅亡す』とあり、『余呉町誌』や小谷の八幡神社社伝にも、吉継出生の地の記述はあるが、地元余呉町でも、吉継にまつわる伝承はあまり知られていない。

吉継出生の社伝が残る八幡神社(長浜市余呉町小谷158)

 歴史に名を残し、三成の親友として知られる吉継だが、出自とその一族に関してはよくわからないままであり、その系譜に関して信頼のおける史料は発見されておらず、家族・親族に関してもわずかに確認できる程度であるという。
 話は異なるが、米原市下多良の畑の片隅に、祠がポツンと建っている。地元の人でも、知る人ぞ知る祠である。伝説によると、ここは大谷吉継の首塚だそうだ(頭痛が治るらしい!? 大谷吉継の首塚参照)。
 城郭研究家長谷川博美さんによると、「米原の中多良にある寺院・願乗寺には余呉の菅並から移された梵鐘が遺されている。上多良にも余呉から持ち出された鐘がある。かつて米原の郡司であった朝妻十郎佐衛門が大谷十郎佐衛門と姓を変えている。米原は大谷氏となんらかのゆかりがあった土地だと考えられる。そのため、吉継が生前に遺言をのこし、下多良に首塚があるのではないかと考えられる」という。
 石田三成をはじめとし、増田長盛、田中吉政、脇坂安治、片桐且元など、多くの近江出身の武将が秀吉の長浜城時代に召し抱えられている。大谷吉継の出生地が近江である可能性は大いにある。今後の研究成果が期待されるところだ。 江戸時代、関ヶ原合戦の首謀者と親友であった吉継の出生地をはばかり、「大谷」を「小谷」と改め、わざわざ「おおたに」と読むところに、もうそれだけでドキドキするほど本当らしさを感じるのだ。

参考文献

  • 「智将 大谷刑部」池内昭一著 / 新人物往来社 / 1990年
  • 「余呉町誌 通史編上史」余呉町誌編さん委員会編 / 余呉町役場 / 1991年
  • 「大谷刑部のすべて」花ヶ前盛明編 / 新人物往来社 / 2000年
  • 「戦国武心伝」歴史群像シリーズ66 / 学習研究社 / 2002年

 

風伯

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