レキジョのための基礎知識 4
龍潭寺に遺る佐和山の記憶

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2010年12月10日更新

城内の屋敷にあったと伝わる板戸

 戦国ブームの影響もあって、石田三成の居城であった佐和山城跡へ登る人が増えている。山を挟んで西からのルートの入口にあたるのが龍潭寺である。関ヶ原合戦の功労により佐和山城を与えられた井伊直政が、現在の静岡県浜松市にある井伊家始祖・共保(ともやす)以来の同名の菩提寺を分寺し開いた、臨済宗妙心寺派の寺院である。
 山門をくぐった正面にある観音堂脇の細い道が、佐和山への登山道となる。ここには明治初めまで門があった……。
 「寺から鳥居本へ抜ける道にあったそうです。佐和山城の門と考えて良いでしょう」と龍潭寺の19代住職・北川宗暢(そうちょう)さん(66)が教えてくださった。
 門の一部は今も遺っている。明治41年、書院に「果然室」(非公開)という茶室が造られた。ここに石田三成、豊臣秀吉、田中吉政を祀る仏壇がある。仏壇を囲うように取り付けられた木の枠は、門の扉板を使っている。

 「江戸時代、龍潭寺は三成を慕う者や残党が佐和山へ入らないように警備する役割を担ってもいました。佐和山城主としての三成を顕彰するようになったのは明治以降のことです。ここは井伊家の菩提寺であると共に、『三成公ゆかりの地』にある寺でもあるんです」。
 三成と秀吉が共に祀られているのは解るのだが、田中吉政とは……。吉政は、関ヶ原合戦では三成と敵対する東軍……、何故?。
 三成逃亡後、吉政が井伊直政や小早川秀秋らと佐和山城へ攻め入ったところに理由がある。
 田中吉政に関連する書物を見ると、関ヶ原合戦の「翌日から三成の居城である佐和山の攻撃が始まり、吉政は搦手(北側)から攻め込み、籠城軍の抵抗が激しいので、水ノ手郭に金堀を潜入させ内部を攪乱、落城させることに成功したと『寛政重修諸家譜』は伝える」とある(「秀吉を支えた武将田中吉政—近畿・東海と九州をつなぐ戦国史—」)。
 徳川家康は吉政に三成ら逃亡者を捕縛するように書状で命じ吉政の部下が木之本町古橋で三成を拘束した。家康が吉政に三成捕獲を命じたのは、吉政が虎姫町宮部の出身で湖北地域の地理に詳しいことによる。
 吉政と三成、それぞれの出生地は車で15分ほどの距離だ。ふたりは浅井家家臣の家系であり、交流もあっただろうといわれている。
 「吉政が落城を成功させたのは、佐和山をどこから攻めればいいか、いわば弱点を知っていたということ。それに敬意を表し祀ったものです」と北川さんは説明する。

佐和山城の陣鐘

 龍潭寺には他にも三成や佐和山城にまつわる品が遺されている。本堂に至る通路の板戸は、城内の屋敷にあったと伝わっている。また、玄関に飾られている釣鐘は佐和山城の陣鐘だった。三成自詠の短冊(彦根城博物館で保管)も伝わり、周囲の景観を詠んだとも、辞世の句ともいわれている。
 「最近三成が見直されてきているのはうれしいですね。ただ登山される方はお寺を素通りされてしまいますけれども……」。
 私はと言えば、まだ佐和山に登ったことがない。

参考文献

  • 「秀吉を支えた武将田中吉政—近畿・東海と九州をつなぐ戦国史—」市立長浜城歴史博物館 岡崎市美術博物館 柳川古文書館編 / 平成17年 サンライズ出版

龍潭寺

滋賀県彦根市古沢町1104
TEL: 0749-22-2777

拝観時間 9:00〜16:00(夏季は17:00)
拝観料 大人400円 / 小学生150円

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

椰子

DADA Journal 内の関連記事
スポンサーリンク