成菩提院に遺された三成の掟書

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 米原市 2009年11月11日更新

成菩提院

 石田三成の生誕地から比較的近い場所で生まれ育ったせいだろうか、三成は私にとって身近な歴史上の人物、だった。少年時代の三成が秀吉を気遣った三杯の茶のエピソードは、繰り返し聞く昔話のようなものだ。ただ佐和山城主としての三成については長く知らずにいた。
 佐和山城主、三成がどのように民政を進めていこうとしたのかをよく伝えるのが、所領である犬上・坂田・浅井・伊香四郡に出した「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」で、「治部少枡」と呼ばれた三成が提供した枡を使用すべきことなどが記されている。年貢高の決定に関する細かい規定がされているのが特徴だ。三成への直訴を許すという内容もある。年貢という税金システムの確立や、年貢を差し出す者の権利の保護をめざそうとしていることがわかる。しかし三成が佐和山城主であった期間は10年に満たなかった。
 この「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」の2種の掟書は現在も各地域に残っているそうだ。旧山東町柏原にある天台宗の古刹、成菩提院(じょうぼだいいん)には「十三ヶ条掟書」が保管されている。ご住職の山口智順さんによると、このあたりは当時成菩提院村と呼ばれ、寺の領地であったことからここに掟書が残っているのだという。
 ご住職が興味深いエピソードを教えてくださった。関ヶ原の合戦で三成率いる西軍から家康側の東軍に寝返った小早川秀秋が、合戦直前に成菩提院に滞在していたというのだ。これは禁制札と呼ばれる、武将が部下に出す滞在時の約束事を記した木札の日付からわかるそうだ。このときの住職、祐円は徳川家康のブレーンといわれた天海の兄弟子であった。「天海から祐円に、そして祐円が秀秋に…という形で秀秋の寝返りの決断を固める何かがあったとも考えられるわけです」とご住職は推測される。それを裏付けるかのように、合戦後祐円は家康に戦勝祝いとして牡丹餅を献上し、家康から合戦時の櫓に使った木材などをもらい受けたという。


成菩提院に保存されている「十三ヶ条掟書」

 三成の掟書と牡丹餅を載せたという器を見せていただく。保管状態が良く、年月を感じさせない。
 中山道の前身の街道であった東山道が寺の山を走っていたことなどから成菩提院には信長や秀吉など数々の武将が訪れていた。掟書はじめ、さまざまな武将ゆかりの品が18日から公開される。「戦国時代は義理や人情といった人とのつながりが濃かったはずです。自分さえ良ければいいということならば、あの時代はなかったように思います。戦国ブームといわれますが、武将たちの生き方を知ることで自分なりの生き方を見つけたり、見直すことにつながってほしいですね。公開はそのきっかけになればと思っています」とご住職はお話になった。
 成菩提院の山門から本堂へと至る石段は、一足登るごとに日常から切り離されていく……。帰りは逆である。戦国の世に生きた人々のめざしたものと、今を生きる自分との関係について思い、石段を下っていく。
 なぜだかやるせない気持ちになっていった。

参考

『近江が生んだ知将 石田三成』太田浩司著 / サンライズ出版(2009年)

寂照山 円乗寺 成菩提院

滋賀県米原市柏原1692 / TEL: 0749-57-1109

寺宝展
2009年11月18日(水)〜24日(火)9:00〜16:00(18日は13:00から)
志納料 300円
寺宝展は米原市の徳源院、観音寺でも同時開催

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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