片桐且元の首塚…?
JR高月駅の西側、入り組んだ路地の一角に石碑がある。片桐且元の首塚である旨が記されている。歴史好きなら首をかしげるだろう。一般に且元は駿河の国で死去したといわれているからだ。
且元といえば、賤ヶ岳合戦の七本槍のひとりとしてよく知られる人物である。旧浅井町須賀谷に生まれ、幼くして羽柴秀吉に仕えた。賤ヶ岳合戦で且元は大いに武功を挙げ、秀吉の死後は秀頼の側近となり、豊臣家の庶務全般を任された。且元は秀吉に対する忠誠を貫こうとした律儀な人であった。関ヶ原の合戦では中立を保ち、その後も豊臣家と徳川家の間の交渉役となり心を砕いたが、豊臣家から反逆の疑いをかけられ、徳川側につくことになった…。大坂夏の陣を駿河で迎えた且元の死は、切腹とも病死とも伝わっている。
高月に且元の首塚がある不思議を、周辺の歴史に詳しい片桐信一さんが教えてくださった。
実は首塚は、且元の祖先にあたる片桐一族の菩提寺の跡なのだという。碑のある辺りは寺名である「円通寺」が小字名として残っている。
では、なぜ首塚なのだろうか。昭和54年、寺跡に石碑の建立が計画されたとき、参考にしたのが徳永真一郎氏の著書であった。そこには寺があった名残を示す欅の写真が掲載され、且元の首塚と紹介されていたのだ。書くにあたっては調査も行われたはずなのだが……。ご本人が死去された今となっては確かめるすべはない。
ところで京極氏に代わって湖北の勢力となったのが、浅井氏だ。且元の父・直貞は浅井長政の家臣として須賀谷に移る。且元が須賀谷の生まれとされるのはこれに由来しているが、片桐さんは首をかしげる。「直貞が長政についた時期が不明なので、且元が生まれたのは本当に須賀谷かどうかは、はっきりしません。もしかしたら高月ですでに生まれていたかもしれない」と推測する。
さらに片桐さんはこう続ける。「且元は弘治2年(1556)生まれですから小谷城が落城した天正元年(1573)には17歳だった。且元は幼い頃から秀吉に仕えていたのであれば、且元と直貞は親子でありながら、敵対関係にあったということになります。秀吉に仕えていた且元が浅井氏側の須賀谷に家族と共に住んでいたとは考えにくいですよね」。且元の生涯を独自に追ってきた片桐さんならではの仮説だ。
片桐さんは「お話したことは推測の域を出ないことばかりです。この一帯は賤ヶ岳合戦で秀吉軍が火をつけたとかで、はっきりとした記録は一切残っていないんです」と繰り返し話されていた。一説には、切腹した且元の首を南蛮酒にでもつけて、生まれ故郷の高月へ運んだとも伝えられているそうだ。史実と史実の間を想像が膨らんでいく。
参考文献: 「近江歴史散歩」徳永真一郎著 創元社(昭和41年)
片桐信一さん
長浜市高月町高月在住。
室町時代、足利氏の配下として片桐氏が信州から高月の地に移り住んだのが始まりで、後に六角氏・京極氏の台頭に応じて主君を変え、一族は一帯をまとめるまでに発展していった。
片桐信一さんは、その姓からわかるように、高月に移り住んだ片桐一族の血をひいている。
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