畑の中に建つ竹生島 一の鳥居

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2009年10月2日更新

畑の中に立つ「竹生島の一の鳥居」

 旧びわ町早崎の集落の東のはずれに、竹生島の一の鳥居と呼ばれている鳥居がある。付近はただ畑が広がるばかりで、不思議な光景である。「島から離れたこの場所に鳥居があるのは、竹生島の参道がここにあったことを表しているのだ」と、長浜城歴史博物館の学芸員である北村大輔さんが教えてくださった。
 竹生島は日本三大弁才天のひとつに数えられ、西国三十三所観音霊場の札所であったことから、古くから多くの参詣者が訪れ、早崎や湖北町尾上から出る船で竹生島に渡ったそうだ。
 北国街道には道の分岐に「竹生嶋道」と記された道標がある。早崎、或いは尾上のいずれかの港への標で、早崎の場合は港に出る前に一の鳥居を通る。ちなみに今も、旧びわ町曽根に遺る「左竹生嶋道」の道標は県内で最も大きく、3メートルの高さがある。
 早崎に参道が通り、いわば竹生島の門前町であったのは、この地が竹生島にとって特別な存在であったことに由来する。
 江戸時代以前は竹生島が早崎の領主であった。早崎の人々は竹生島のための民として、祭礼行事などについて奉仕をし、それは現代まで受け継がれている。
 「早崎だけでなく下八木や富田の集落でも竹生島に奉仕する慣習が続いています。これはもともと益田郷と呼ばれていた現在の早崎・下八木・富田の人々が、竹生島に来た聖武天皇の御輿をかついだことに始まるようです。ただ、今では自分たちの集落と竹生島との関係や鳥居が建つ理由を知る人も少なくなっているのではないでしょうか」と北村さんは話す。
 現在の鳥居は、「天明六丙午歳六月良辰」(1786年)、早崎の隣の益田の出身で、江戸で商いをしていた江嶋屋甚兵衛の先導のもと早崎近隣の住人が加わり建立したものだ。鳥居のそばの石碑に創建に携わった人々の名が記されている。以来、伊勢湾台風(1959年)で倒壊したものの修復され、今に至っている。天明6年以前は、木の鳥居だったという。
 参道は畑に変わった……。鳥居の正面に立つと、竹生島が若干右よりに見える……。もはや鳥居は記憶を留める装置でしかないのだろうか……。


参考文献
『早崎のムラの昔』早嵜観縁(平成5年)
「企画展 竹生島弁才天信仰と名宝」長浜城歴史博物館(平成20年)

小太郎

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